栄光と衰退
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「日本郵政公社労働組合」の記事における「栄光と衰退」の解説
全逓は発足以来、激しい運動や権利闘争で数々の成果を上げており、権利の全逓と呼ばれ、公務員労働者の地位向上、ひいては労働者の地位向上や制度の見直しなど、寄与する面が大きかった。国労、日教組と共に、「総評御三家」と呼ばれたこともあった。だが時代が下るにつれ、組織の硬直化が目立ってきたとの指摘もある。 宝樹文彦(1960年-1971年全逓委員長)委員長に就任した1960年には、スト処分で解雇された全逓役員に対し、当局が団体交渉拒否したことに対する3年越しの「団交再開闘争」に勝利し、1万7000人の非常勤職員の本務化闘争、4万人大増員要求闘争、特定郵便局の電話自動化反対闘争などを展開した。1961年の春闘では、結成以来初めて半日のストライキを実施、意図的に郵便物を滞留させる物だめ戦術の展開、奈良県、上市・下市局の電話自動化をめぐり大闘争を行ったが敗れた。 1965年、全日本労働総同盟(同盟)傘下に右派組合が結集して全日本郵政労働組合(全郵政)を結成、組織拡大を始める。その中で郵政省の庇護の下、全郵政は全逓からの引き抜きを行い、また、全逓は組織防衛のために介入、妨害を行う。両者の介入、妨害などは熾烈を極め、時には暴力にも及んで逮捕者が続出した。この事態は1970年代後半になると沈静化してゆき、1978年から1979年にかけて行われた年賀状配達を混乱させた「反マル生闘争」 を最後に、1980年代に入ってからはあまり起こっていない。 また、1979年4月28日に郵政省から前年から続いた反マル生闘争に対する「4・28処分」が出され、61名の組合員が免職にされた(2007年2月13日に処分無効の最高裁決定が出る)。これに伴い免職された組合員の生活保障を全逓が行うこととなり、組合の財政が傾くことが避けられなくなった。そこで同年10月28日の郵政省との「10・28確認」でそれまでの対決姿勢を転換する。さらに1982年の蒲郡大会における「30年総括」、その後の制度政策闘争で、徐々にではあるが労使協調へと寄っていった。 1983年には、総評が実施した、社会党への選挙闘争資金集めである「'83政治決戦カンパ」で「憲法の精神からみても特定政党支持を機関決定することは間違いである」「組合員の政党支持の自由は保障すべきだ」との立場から、「特定政党への政治資金の臨時徴収」を拒否した(共産党系)組合員を除名。除名された組合員は、1982年6月12日に結成された郵政産業労働組合(郵産労、現在の郵政産業労働者ユニオン)に合流した。また連合結成に伴い、その時に離脱しなかった他の左派系組合も相次いで離脱、郵政全労協(郵政労働者ユニオンを経て、郵政産業労働者ユニオン)を組織した。 これらの中で、全逓は当初、約24万人いた組合員を減らし続け、統合時には約14万人となった。下降の中一度だけ純増に転じたのは1978年の反マル生闘争の時のみである。組織減少には全郵政や郵産労への離脱以外にも、1985年の全逓会館事件に見られる、副業として多くのホテル建設に伴う巨額の負債を抱えたことや、加藤財政部長(当時)の組合予算流用事件など、相次ぐ不祥事などからくる組織不信が影響していると思われる。一方の全郵政は約2万2000人から最盛時には約9万人に増やしたが、統合直前には勧奨退職(早期退職制度)が影響して8万6千人に減少していた。 名称は、2003年4月1日に郵政事業を日本郵政公社に移管するのに伴い、第58回定期大会以降の2004年6月23日に日本郵政公社労働組合とした。
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栄光と衰退
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新式の軍事編成によって生まれた部隊をテルシオと呼称する動きは1509年に始まったとされる。この時の部隊はのちにTercio Viejo de Nápolesとなる。 1536年、カルロス1世によって発布された勅令にテルシオ(Tercio)という名称が登場し、これ以後テルシオという名称が一般化する。その由来には諸説あるが、いまだに定説を見ない。3つに部隊を分けたことに由来するとも言われる[要出典]。 テルシオは発足当初から志願による兵士の募集を行っており、国家により直接維持・運営される常備軍的な性格を持った。長期にわたる雇用は、常に一定以上の練度、結束力を保持することができた。また即応性のある戦力として、スペイン軍の強さに繋がった。テルシオは当初はスペイン人のみから構成されていたが、1584年にイタリア人からなるテルシオが創設されたのをきっかけに、外国人のテルシオも創設されるようになった。 しかし、常備軍的な性格を持ったため、当然ながら、その分スペインの国庫は圧迫された。これは新大陸からの金銀の流入によって潤ったスペインでも耐え切れないほどの支出であり、歴代の国王は数度にわたって国家の破産宣言をすることとなる。 それでも16世紀を通して、テルシオは最精鋭の軍団として各地で活躍した。1525年のパヴィアの戦いでは、フランス王フランソワ1世を捕虜にするという戦果を挙げた。テルシオの力でスペインはイタリア戦争に勝利し、フランスのイタリアへの介入を頓挫させた。ネーデルラントの反乱も、16世紀末まではほぼ抑制することに成功していた。 しかし17世紀に入ると、テルシオに挑戦する試みが現れる。ネーデルラントのマウリッツ・ファン・ナッサウは、テルシオを破るために新式の軍隊を編成し、オランダ式大隊と呼ばれる戦闘隊形を編み出した。マウリッツの改革はヨーロッパに波及し、スウェーデンのグスタフ2世アドルフはそれをさらに洗練させ、1631年のブライテンフェルトの戦いで、神聖ローマ皇帝軍のスペイン方陣を破った。 こうした動きを受けて、テルシオもいくつかの改革を取り入れた。1635年、フェリペ4世は布告を出し、テルシオの軍制改革を進めた。テルシオ1部隊あたりの兵員定数を3000名から1000名前後に削減して、指揮の効率化に努めた。時代遅れになっていた戦闘隊形も改良し、スペイン方陣とスウェーデン式大隊を融合させた新隊形を採用した。1637年には、民兵をテルシオの中に取り込んで、地方テルシオと呼ばれる軍団を編成し、動員兵力を増加させた。しかし、1643年のロクロワの戦いで大敗を喫するなど、すでにスペインとテルシオの軍事的優位は失われていた。その後もテルシオはいくつかの改良を加えられていったが、1704年、フェリペ5世(ルイ14世の孫)が、フランス式の連隊と大隊で構成される軍制を採用したことによって、テルシオは消滅した。現在、テルシオという軍隊用語はスペイン外人部隊の部隊単位および海兵隊や第4特殊作戦集団の通称としてのみ存在している。
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