栄光と衰退とは? わかりやすく解説

栄光と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 06:20 UTC 版)

日本郵政公社労働組合」の記事における「栄光と衰退」の解説

全逓発足以来激し運動権利闘争数々成果上げており、権利全逓呼ばれ公務員労働者地位向上、ひいては労働者地位向上や制度見直しなど、寄与する面が大きかった国労日教組と共に、「総評御三家」と呼ばれたこともあった。だが時代が下るにつれ、組織硬直化目立ってきたとの指摘もある。 宝樹文彦1960年-1971年全逓委員長委員長就任した1960年には、スト処分解雇され全逓役員対し当局団体交渉拒否したことに対す3年越しの「団交再開闘争」に勝利し1万7000人の非常勤職員本務闘争、4万人大増要求闘争特定郵便局電話自動化反対闘争などを展開した1961年春闘では、結成以来初め半日ストライキ実施意図的に郵便物滞留させる物だめ戦術の展開、奈良県上市下市局の電話自動化をめぐり大闘争行った敗れた1965年全日本労働総同盟同盟傘下右派組合結集して全日本郵政労働組合全郵政)を結成組織拡大始める。その中で郵政省庇護の下、全郵政全逓からの引き抜き行いまた、全逓組織防衛のために介入妨害を行う。両者介入妨害などは熾烈極め時には暴力にも及んで逮捕者続出した。この事態1970年代後半になると沈静化してゆき、1978年から1979年にかけて行われた年賀状配達混乱させた「反マル闘争」 を最後に1980年代入ってからはあまり起こっていない。 また、1979年4月28日郵政省から前年から続いたマル闘争対する「4・28処分」が出され61名の組合員免職にされた(2007年2月13日処分無効最高裁決定が出る)。これに伴い免職された組合員の生活保障全逓が行うこととなり、組合財政が傾くことが避けられなくなった。そこで同年10月28日郵政省との「10・28確認」でそれまで対決姿勢転換する。さらに1982年蒲郡大会における「30年総括」、その後制度政策闘争で、徐々にではあるが労使協調へと寄っていった。 1983年には、総評実施した社会党への選挙闘争資金集めである「'83政治決戦カンパ」で「憲法精神からみても特定政党支持機関決定することは間違いである」「組合員政党支持の自由は保障すべきだ」との立場から、「特定政党への政治資金臨時徴収」を拒否した共産党系)組合員除名除名され組合員は、1982年6月12日結成され郵政産業労働組合(郵産労、現在の郵政産業労働者ユニオン)に合流した。また連合結成に伴いその時離脱しなかった他の左派組合相次いで離脱郵政全労協郵政労働者ユニオン経て郵政産業労働者ユニオン)を組織した。 これらの中で、全逓当初、約24万人いた組合員減らし続け統合時には14万人となった下降中一度だけ純増転じたのは1978年の反マル闘争時のみである。組織減少には全郵政や郵産労への離脱以外にも、1985年全逓会館事件見られる副業として多くホテル建設に伴う巨額負債抱えたことや、加藤財政部長(当時)の組合予算流用事件など相次ぐ不祥事などからくる組織不信影響していると思われる一方全郵政は約2万2000人から最盛時には約9万人増やしたが、統合直前には勧奨退職早期退職制度)が影響して86千人減少していた。 名称は、2003年4月1日郵政事業日本郵政公社移管するに伴い第58回定期大会以降2004年6月23日日本郵政公社労働組合とした。

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栄光と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 21:18 UTC 版)

テルシオ」の記事における「栄光と衰退」の解説

新式軍事編成によって生まれた部隊テルシオ呼称する動き1509年始まったとされる。この時の部隊はのちにTercio Viejo de Nápolesとなる。 1536年カルロス1世によって発布され勅令テルシオ(Tercio)という名称が登場し、これ以後テルシオという名称が一般化する。その由来には諸説あるが、いまだに定説見ない3つ部隊分けたことに由来するとも言われる[要出典]。 テルシオ発足当初から志願による兵士募集行っており、国家により直接維持・運営される常備軍的な性格持った長期にわたる雇用は、常に一定上の練度結束力保持することができた。また即応性のある戦力として、スペイン軍強さ繋がったテルシオ当初スペイン人のみから構成されていたが、1584年イタリア人からなるテルシオ創設されたのをきっかけに、外国人テルシオ創設されるようになった。 しかし、常備軍的な性格持ったため、当然ながら、その分スペイン国庫圧迫された。これは新大陸からの金銀流入によって潤ったスペインでも耐え切れないほどの支出であり、歴代国王数度わたって国家破産宣言をすることとなる。 それでも16世紀通してテルシオは最精鋭軍団として各地活躍した1525年パヴィアの戦いでは、フランス王フランソワ1世捕虜にするという戦果挙げたテルシオの力でスペインイタリア戦争勝利しフランスイタリアへ介入頓挫させた。ネーデルラント反乱も、16世紀末まではほぼ抑制することに成功していた。 しかし17世紀に入ると、テルシオ挑戦する試み現れるネーデルラントのマウリッツ・ファン・ナッサウは、テルシオを破るために新式軍隊編成しオランダ式大隊呼ばれる戦闘隊形編み出したマウリッツ改革ヨーロッパ波及しスウェーデングスタフ2世アドルフはそれをさらに洗練させ、1631年ブライテンフェルトの戦いで、神聖ローマ皇帝軍のスペイン方陣破ったこうした動き受けてテルシオいくつかの改革取り入れた1635年フェリペ4世布告出しテルシオ軍制改革進めたテルシオ1部隊あたりの兵員定数3000名から1000前後削減して指揮効率化努めた時代遅れになっていた戦闘隊形改良しスペイン方陣スウェーデン大隊融合させた新隊形採用した1637年には、民兵テルシオ中に取り込んで地方テルシオ呼ばれる軍団編成し動員兵力増加させた。しかし、1643年ロクロワの戦い大敗喫するなど、すでにスペインテルシオ軍事的優位失われていた。その後テルシオはいくつかの改良加えられていったが、1704年フェリペ5世ルイ14世の孫)が、フランス式連隊大隊構成される軍制採用したことによって、テルシオ消滅した。現在、テルシオという軍隊用語はスペイン外人部隊部隊単位および海兵隊や第4特殊作戦集団通称としてのみ存在している。

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