第二遊撃部隊の作戦準備
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及川古志郎軍令部総長が12月14日に昭和天皇へ奏上したように、大本営海軍部は「情況ニ依リテハ水上艦艇ノ突入作戦ヲ実施」する意向だった。12月16日朝、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将は第43駆逐隊によるサンホセ突入と奇襲攻撃を命じたが(17日夜半実施予定)、出撃が間に合わず19日には延期を指示した。続いて「菲島方面当面作戦方針(機密第190137番電)」で「第二遊撃部隊及第三十一戦隊ハ適時『サンホセ』附近在泊中竝ニ増援中ノ敵艦船ヲ奇襲攻撃」とし、日本陸軍が逆上陸をおこなう場合は支援するよう指示した。 12月20日、大川内中将は第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将(第五艦隊司令長官)に対し、麾下の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将を指揮官とする挺身部隊の編成を発令し、22日以降に水上部隊(巡洋艦1-2隻、駆逐艦4-6隻)ですみやかにミンドロ島へ突入することを下令した(NSB電令作第838号)。カムラン湾所在の第二水雷戦隊(旗艦大淀)を基幹に、フィリピン近海に存在していた日本海軍艦船がかき集められた。第二遊撃部隊側(志摩中将、木村少将)は駆逐艦のみによる12月23日夜サンホセ突入案を南西方面艦隊参謀長有馬馨少将と陸軍南方総軍司令部に意見具申したところ、日本海軍・陸軍の作戦打ち合わせが全く出来ていないことが判明し、第二遊撃部隊側を唖然とさせた。 当時、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向〔旗艦〕、伊勢)も第二遊撃部隊に所属しており、カムラン湾に停泊していた。作戦実施にあたり、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)は重巡洋艦足柄を挺身部隊に編入し、遊撃部隊旗艦を日向に変更する。重巡羽黒は戦闘に参加できなかった。 また木村少将は旗艦を軽巡洋艦大淀から駆逐艦霞に変更する。その理由として「巡洋艦よりも小回りが利き機動性のある駆逐艦を選んだ」・「臨時に追加された大淀や足柄よりも第一水雷戦隊司令官として昭和18年より麾下にありレイテ沖海戦の際には座乗したことのある意思疎通の容易な霞を選んだ」・「大淀と足柄は借り物としての意識があったから」ともいわれる。志摩中将(第五艦隊長官)は「それならいっそのこと長官が全部隊を率いて本作戦を指揮する方が適当だとも考えたが、木村司令官の面子もあり、計画の変更は徒らに事を紛糾させる虞があるので、歴戦の経験者たる木村司令官に一任することにした」と回想している。 12月22日夕刻、礼号部隊はカムラン湾に移動。12月25日夜のミンドロ島突入が計画されたが、天候悪化による部隊集結の遅延から、26日夜の突入に変更された。給油作業などの出撃準備が進められた。
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