礼号作戦・北号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 05:28 UTC 版)
「朝霜 (駆逐艦)」の記事における「礼号作戦・北号作戦」の解説
11月15日、朝霜は第31駆逐隊から第2駆逐隊(駆逐隊司令白石長義大佐)に編入され、同隊は清霜と朝霜の2隻編制になった。朝霜はリンガ泊地に回航され、11月28日から12月5日までセレター軍港で修理を行った。この頃、昭南には11月19日にアメリカ潜水艦ヘイクの雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦五十鈴がおり、スラバヤで本格的な修理が行われる事となった。朝霜が途中まで護衛を行う事となり、12月5日に昭南を出港。12月8日にリンガ泊地に帰投した。12月9日以降、朝霜は第二水雷戦隊旗艦となった。続いて航空戦艦2隻(日向〔第四航空戦隊旗艦〕、伊勢)、巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦2隻(朝霜、清霜)はカムラン湾に進出した。カムラン湾移動後、二水戦旗艦は朝霜から軽巡大淀に変更された。 詳細は「礼号作戦」を参照 12月24日、ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に対する殴りこみ作戦(礼号作戦)が開始された。挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)はこれに呼応して挺身部隊の巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦6隻(霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、清霜、朝霜、榧、杉、樫)を率いてカムラン湾を出撃する。2日後の12月26日夕刻、挺身部隊はB-25の爆撃を受けた。朝霜では機銃掃射により3名が戦死し、艦に大なり小なりの損傷を受けた。また、第2駆逐隊の僚艦清霜は空襲で被弾、沈没した。朝霜は清霜が行方不明になった事を木村少将に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、霞と朝霜を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、初霜以下は先にカムラン湾に向かった。霞と朝霜は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜乗員を数えた。第2駆逐隊司令や清霜艦長をふくめ258名を救助した(朝霜は167名収容、ほかに米軍に5名救助)。2時34分まで救助作業を行った後、12月28日18時30分にカムラン湾に帰投した。木村少将は二水戦旗艦を大淀に戻し、朝霜と霞に対して燃料補給をおこなった。 1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代した(着任・退任1月4日)。1月10日、かつて朝霜が所属していた第31駆逐隊は解隊された(前述)。第2駆逐隊からも、書類上在籍していた早霜と秋霜が除籍された。前年末〜2月初めごろの朝霜は、セレター軍港での整備とリンガ泊地での訓練および待機に明け暮れた。米軍機動部隊が南シナ海に進入しヒ86船団やヒ87船団が大損害を受け、大本営は燃料や物資の緊急輸送作戦実施を下令する。2月5日、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将・海兵44期)に対してガソリン、ゴム、錫などの貴重物資を搭載して内地に回航するよう連合艦隊から命令が出された。作戦名は「北号作戦」、部隊名を「完部隊」とした。 詳細は「北号作戦」を参照 完部隊各艦は2月7日から9日にかけて貴重物資を搭載し、2月10日16時に昭南を出港した。第四航空戦隊(日向、伊勢、大淀)、第二水雷戦隊(霞〔二水戦旗艦〕、朝霜、初霜)から成る「完部隊」は、潜水艦と航空機の脅威を次々と交わしつつ北上していった。中国大陸沿岸、舟山群島を航行。2月15日夜、馬祖島で仮泊、大型艦から駆逐艦への燃料補給を実施(日向→霞、伊勢→初霜、大淀→朝霜)。黄海南方、対馬北方を経て2月19日夕刻に六連に到着。2月20日、完部隊は呉に帰投した。
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