1940年代 - 1960年代
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「シンシナティ・レッズ」の記事における「1940年代 - 1960年代」の解説
第二次世界大戦が激化する中、1944年6月11日のセントルイス・カージナルス戦で、ジョー・ナックスホールが15歳10ヶ月11日というMLB史上最年少でマウンドに上がった。1アウトはとったもののその後に5点をとられて降板、その試合限りでマイナー落ちとなった。後にナックスホールは1952年に再びメジャーに昇格し、現役16年間で通算135勝117敗を記録、引退後はレッズの専属解説者を務めた。1940年代後半にはいると、上記の選手も次々と退団し、チームも次第に下降線を辿る。1945年には61勝93敗で勝率3割台に落ち込み、以降1955年まで勝率5割以下のシーズンが続いた。 1950年代にはマッカーシズムの影響もあり、1953年にはチーム名もレッドレッグスと改名した。レッズが共産主義者を指す言葉でもあるため、赤狩りの対象となるのをレッズのオーナー達が恐れたものだった。後にマッカーシズムが終焉を迎えると、1958年には元のレッズという名称に戻っている。この頃チームを支えたのはテッド・クルズースキーで1954年には49本塁打・141打点で二冠王に輝いている。また当時、クルズースキーは自分でユニフォームの袖部分を切り、ノースリーブのユニフォームを着用して話題となった(190cm、110kgという体躯を誇ったクルズースキーにとってユニフォームの袖は窮屈でしかなく、自身のスイングの妨げとなっていた)。 1956年、フランク・ロビンソンがメジャーデビューし、いきなり38本塁打を放つ活躍を見せ、新人王を受賞。チームも当時のナショナルリーグ最多タイ記録となる221本塁打を放った。その後ロビンソンはチームの主砲として活躍、1965年限りでチームを離れるまでに通算324本塁打を記録した。1961年、前年のシーズン途中に就任したフレッド・ハッチンソン監督の下、久々のリーグ優勝を果たす。しかし、ワールドシリーズではロジャー・マリス、ミッキー・マントルのMM砲を擁するニューヨーク・ヤンキースと対戦し、1勝4敗で敗れた。1964年にはハッチソンが45歳という若さで亡くなる悲劇もあったが(後に彼のファイティング・スピリットを称えてハッチ賞が制定される)、この頃には後の黄金時代を支える選手たちが次々と現れ、チームも上位に進出する機会が多くなった。1963年にピート・ローズがメジャーデビュー、1967年にはジョニー・ベンチがメジャーデビューし、それぞれ新人王を受賞した。しかし、1960年代のワールドシリーズ進出は1961年の1度きりで、レッズが本当の黄金時代を迎えるにはもう少し待たなければならなかった。1969年からは東西地区制導入によりナショナルリーグ西地区所属となる。
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1940年代-1960年代
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「リトル・トーキョー」の記事における「1940年代-1960年代」の解説
第二次世界大戦後の1940年代後半には、リトル・トーキョー周辺には数多くの日本人、日系人が定住、映画館も「ラブレア東宝」、「富士館」等5軒程あり、日活、東映、東宝、松竹等、日本のメジャー各社が劇場を運営、こうした邦画専門館は「日本とアメリカのへその緒」とも云われ、遠い祖国へ想いを馳せる日系人の憩いの場となった。1960年代には、寿司カウンターを備えた日本食レストランが誕生、アメリカにおける寿司文化発祥の地ともされる。
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