1940年の橋
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1940年(昭和15年)に冠水橋架設の陳情書が県に提出され、木造板橋の冠水橋(かんすいきょう)が架けられた。橋長64.3メートル、幅員3メートルで上流側に丸太を斜めに傾けた木組みの流木避けが設置されていた。道幅が狭く交互通行であり、重量制限が設けられていた。河川区域内の高水敷に架けられた冠水橋なため、洪水のたびに通行止めになり、1965年(昭和40年)9月17日の台風24号による洪水で流失した。県は2541万4000円の工事費を掛けて1966年(昭和41年)3月25日開通予定で復旧工事が進められた。橋は通行止めになりその間、仮設の橋が架けられた。
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1940年の橋
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白鳥村が流失した橋の復旧架け換えを行い、1940年(昭和15年)3月竣工した。二代目の橋は初代の橋とほぼ同様の規模及び構造の木製の橋面を持つ吊り橋である。橋長101.1メートル、幅員2.68メートル、水面からの高さ21メートル。橋面は先代の橋と同じ木製で、メインケーブルとハンガーケーブルは鉄索製で、主塔は鋼トラス構造を有している。また、欄干は鉄製で桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている。橋台は水害の影響を考慮すべく、以前よりも高く作り直された。主塔は岩の上に高い橋脚を立ててそこに設置された。主塔の設置場所が段丘面とほぼ同じ高さであるため取り付け道路の勾配や段差がなく、単径間の橋となっており側径間は有していない。人や自転車の他、自動車の通行が可能であった。竣工当時は野上町と白鳥村に架かる白鳥村所有の橋であったが1943年(昭和18年)9月8日の合併により両岸とも野上町になり、町所有の橋となった。この橋は補修を繰り返しながら30年近く利用され続けたが、通行量の増加や木造の橋ということもあって老朽化の進行が早く、重量制限1トンの通行制限を実施していたが、それでも自動車の通行が危険な状態になったため新橋の完成を待たず、1967年(昭和42年)に廃止され取り壊された。上流側西詰に旧橋の取り付け道路跡地を利用したポケットパークが設けられ、そこから初代の橋の遺構を望むことができる。
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