旧橋(初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 02:54 UTC 版)
庄川下流域より利賀村仙野原を経て旧利賀村中心部へ至るアクセス道路として建設された橋であり、現橋よりやや下流側の庄川と利賀川の合流地点付近に存在した。小牧ダム補償の一環として1937年(昭和12年)に完成したものの災害によりたびたび損傷した。1948年(昭和23年)に大規模な改修がなされたが、火災により1965年(昭和45年)に廃止されその後は復旧されることはなかった。1979年(昭和52年)に橋板が撤去され、現在は吊橋の主塔2基のみが残っている。 橋梁概要橋長:178.8 m 幅員:3 m 橋梁形式:鉄吊橋 竣工年:1937年(昭和12年)
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 00:18 UTC 版)
1963年に最初の橋が建設され、その後数度にわたって拡充されてきた。2006年まで、橋は1層構造であり(巡礼者は、地上部と橋の上を用いた)、3つの石柱(ジャムラ)が橋の中の開口部から突き出していた。 橋が作られる以前のジャムラ
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 14:31 UTC 版)
1939年(昭和14年)に完成した大師橋はゲルバー式トラス橋だが、吊り橋に似た形をしていた。橋の長さ552.18メートル、この形式の橋としては東洋一と言われた。車道は二車線あわせて11.0メートル、両側に2.5メートルの歩道があった。川の流れにかかる部分に二つの大きな橋脚を立て、三つのトラスを連結した。この中央部の両側は鋼桁橋であった。
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旧橋(刎橋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 14:35 UTC 版)
かつては全長61.42メートル (m) 、幅3.62 mにも及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の1つといわれていた。 かつて黒部四十八ヶ瀬ともいわれ、河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた、北陸街道の上街道に架かる橋で、加賀藩5代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる。綱紀は、弱冠3歳にして父4代藩主・光高が亡くなり5代目藩主となったが、幼少期は3代利常が後見人となって、江戸屋敷にとどまっていた。やがて利常も亡くなり、1661年(寛文元年)7月の18歳(数え年で19歳)のときに初めて領国入りしたときに、参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を無事に越えて金沢に到着した後、家臣たちを集めて会議を開き、黒部川下流域の入膳宿がある北陸道の下街道を迂回する山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようと相談した。家臣たちは、領地防衛の要害地に橋を架けることに反対したが、綱紀ただひとりは「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれている。 橋は、甲斐の猿橋と同じ形式の刎橋で、橋長33間、幅10尺で架橋されて愛本橋と名付けられた。両岸は岩山で上流部をのぞけばもっとも川幅が狭く、洪水時には大量の土石と水が集中する。橋脚は1年も持たずに流されてしまうために橋の中間に立てることが非常に難しく、川の両岸から大木を突き出す構造であった。 旧愛本橋が架けられていた場所に近いところには、幕末の儒学者である頼三樹三郎がこの橋を称えた詩碑があり、2015年(平成27年)の北陸新幹線開通、黒部宇奈月温泉駅開駅を機に、地元黒部市では観光資源とするために旧愛本橋(刎橋)の復元を検討している。
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旧橋(トラス橋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 14:35 UTC 版)
橋は明治になって近代的な橋に架け替えられていた。1920年(大正9年)4月に鉄骨製のトラス橋となる。 ところが、1969年(昭和44年)8月11日の豪雨で、愛本堰堤の建物内に濁流が押し寄せた。愛本橋でも増水により濁流は橋を越えて流れ、1969年(昭和44年)8月11日14時58分に宇奈月町に橋が流失したとの連絡が入り流失が確認された
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:36 UTC 版)
1645年(正保2年) - 岡崎藩主水野忠善が藩主のころ完成した。当時菅生橋と呼ばれ、後に殿橋と呼ばれた。また現在地より100メートルほど下流にあった。 1905年(明治38年) - 先代の木造橋梁が完成。 1907年(明治40年)6月22日 - 岡崎馬車鉄道が康生町まで延伸し、馬車鉄道が橋上を通った。 1912年(大正元年)9月1日 - 岡崎電気鉄道(後の名鉄岡崎市内線)が運転開始し、市電が橋上を通った。当初は道路橋と分離された電車専用橋であった。
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:41 UTC 版)
1916年(大正5年) - 当時「明大寺橋」と呼ばれた橋が架けられた。 1920年(大正9年)11月2日 - 橋の架け替え工事が完成。木造ハウ式構橋(トラス)板橋で橋長114 m、幅員3.6 mであった。 1932年(昭和7年)7月 - 豪雨により流失。
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旧橋(初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:21 UTC 版)
一般県道土浦大洋線(当時)の一部として、1964年に着工して1968年に橋が完成して開通した。のちの1993年に県道が昇格して、国道354号の橋梁のひとつとなった。 旧橋には「最大幅2.4m、重量14t」の大型車通行制限が設けられていて、対向車がすれ違えないほどに狭く、すれ違うためには、途中に設けられた3ヶ所の待避レーンで対向車を待避するという交互通行をしなければならなかった。 また、かねてより老朽化も懸念されていたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災で橋梁の一部(行方市側より7〜9桁目の3径間、約58 m)が崩落。茨城県警は走行中の車両が複数転落したと発表。翌日、水没車両1台が発見され、男性1人の死亡が確認された。2014年1月に旧橋のすべての撤去が完了した。 橋梁概要橋長:404.6 m 幅員:4 m 車両制限:総重量14t以上、車幅2.4m以上の車両通行規制(1970年(昭和45年)9月20日以降) 橋梁形式:鋼構造21径間単純桁橋 竣工年:1968年(昭和43年)6月 その他:待避所(3箇所)を利用した交互通行
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 20:28 UTC 版)
旧橋は左岸側は旧堤防高を基準に架供されたため、嵩上げされた堤防よりも低いが、河川改修に伴い追加された右岸側は改修後の堤防高を基準にしたため、左岸側より右岸側が約1.5 m高い。このため増水時には橋が水面下に沈む潜り橋になっており、荒川の水位上昇に伴い、通行止めになっていた。 形式 - 11径間単純ポストテンションT桁+2径間鋼単純合成箱桁 橋長 - 494.36 m最大支間長 - 54.9 m 幅員 - 6.000 m車道 - 6.00 m 歩道 - なし 開通 - 1959年(昭和34年)なお、河川改修に伴い、1978年(昭和53年)に右岸側追加
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旧橋(Starý most、スタリー・モスト)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:30 UTC 版)
「ブラチスラヴァ」の記事における「旧橋(Starý most、スタリー・モスト)」の解説
ドナウ川を挟む旧市街区とペトルジャルカ街区を結ぶ道路鉄道併設のトラス橋で、15世紀に架橋された浮橋を置き換える形でハンガリー王国時代の1897年、フランツ・ヨーゼフ橋(Most Františka Jozefa)として架橋された。老朽化に伴う通過車両の抑制策や旧橋に代わる鉄道・高速道路併設橋のドゥクラ英雄橋(現・港橋、Prístavný most)建設を受けて1984年に鉄道線路を撤去。供用開始後110年余りが経過した2010年には橋桁の深刻な老朽化が判明し、車道を通行禁止とした。歴史的文化財として保存する案と橋桁を掛け替える案で議論が行われた末、2013年12月に解体を開始。ペトルジャルカ街区に延伸するブラチスラヴァ市電の新路線を併設し、旧橋桁の形状をイメージした新しい橋桁が2015年暮れに竣工した。
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旧橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 04:47 UTC 版)
当初、天塩大橋は中央径間を鋼ランガー桁、側径間をコンクリートカンチレバー桁とする予定で下部工・基礎工を施工したが、途中で側径間が鋼カンチレバー桁に変更されたためヒンジの位置を再検討した。ランガー桁とカンチレバー桁の接合部では、従来のようにランガー桁とカンチレバー桁を同一直線状に配置した場合、本橋では側径間が200 mあるため経済的でないことから、ランガー桁のカンチレバー部にカンチレバー桁の主桁を載せる構造採用した。また、架設にあたってはケーブルエレクション工法を応用したタイバック工法による架設を実施し、設備の多くを西海橋のものを再利用した 形式 - 鋼カンチレバー鈑桁橋4連 + 鋼バランスドランガー橋 + 鋼カンチレバー鈑桁橋4連 橋格 - 一等橋 (TL-14) 橋長 - 300.00 m支間割 - 21.75 m + 3×22.00 m + ( 9.00 m+ 100.000 m + 9.00 m) + 3×22.00 m + 21.75 m 幅員有効幅員 - 6.00 m 車道 - 6.00 m 歩道 - なし 総鋼重 - 840 t 橋台 - 橋脚式橋台(杭基礎) 橋脚 - ニューマチックケーソン2基・杭基礎6基 床版 - 鉄筋コンクリート床版(後にグレーチング床版に取替) 施工 - 横河橋梁製作所 架設工法 - タイバック工法(ランガー桁)
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