旧橋存続問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 00:38 UTC 版)
旧橋は「白いつり橋」と呼ばれ今まで多くの人々に愛され、親しまれていた。また、秩父の観光資源でもあったことから新橋開通後も存続が検討された。秩父土木事務所は新橋の建設が進捗し、旧橋の解体について1964年(昭和39年)3月解体予定で関係者と検討している中、新橋完成の1年ほど前である1962年頃より秩父市および荒川村は旧橋の払い下げを競願した。秩父市および荒川村は旧橋を払い下げて下流に移設の上で再活用する計画を立て、荒川村は現在の平和橋の場所、秩父市は下影森から久那を結ぶ通学橋(現在の巴川橋付近)として計画し、「是非地元へ」という村民の熱意により荒川村の案に決まりかけていた。ところが秩父市は農免道路を建設する計画にあたり、ネックとなっていた橋梁の建設(現、柳大橋)に掛かる費用は国からの援助金が下りることになり、農免道路の建設を優先することを決定したため、秩父市は旧橋の移設計画を撤回してしまい、荒川村も財政上の問題から払い下げや移設作業に必要な解体費用を捻出できず、移設計画は宙に浮くことになり、何も出来ないまま長い間風雨に晒され荒れるがまま放置されてきた。しかし、対岸の地元通勤通学者にとっては新橋は架橋位置の関係から駅から遠回りになり、旧橋の方が近道になるため、旧橋廃止後も徒歩利用され続けた。橋の管理者であった秩父土木事務所は橋を通行禁止にする措置を取り、橋詰にその旨の立て札てが立てられたが、それでも危険を承知の渡橋が後を絶たなかった。このままでは渡橋者が危険に晒され、いつ転落事故が起こるか分からないため、ついに秩父土木事務所は1970年(昭和45年)3月25日より橋の解体撤去作業に着手され、主塔の土台やコンクリート桁橋などを残して撤去され姿を消した。
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