捷号作戦前
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1944年7月10日、第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊長に就任。美濃部は第一航空艦隊の司令部のあるダバオに出頭し、かつて美濃部の海軍兵学校時代の教官であった第一航空艦隊主席参謀の猪口力平中佐と面談したが、敵が目前まで迫っているにも関わらずその緊張感のなさと、対空警戒能力、哨戒能力への関心の低さに呆れている。8月、美濃部によれば、戦闘901飛行隊に零戦5機と月光7機が補充され、アメリカ軍機動部隊への夜襲を目指して夜間哨戒を強化したというが、猪口によれば、この頃の美濃部は、激化していたアメリカ軍のB-24による夜間爆撃に対する邀撃任務に熱心であり、猪口ら第1航空艦隊幕僚に「探照灯で敵を捕捉してさえくれれば、一撃のもとに撃墜してみせる」と強気な発言をし、その発言を実行するため、毎夜明け方まで自ら月光に搭乗して目標機となって、防空隊の探照灯訓練に協力していたという。しかし、美濃部の意気込みとは裏腹にレーダー設備のないダバオ基地では、夜間戦闘機を夜間は常時上空待機させ、敵爆撃機の予測進入路と離脱路に待ち構えさせておき、敵爆撃機が来襲したら探照灯の支援によって発見して攻撃するといった対応しかできなかったので、戦果は挙がらなかった。美濃部自身も、戦後にこの頃の夜間爆撃対策をお粗末であったと振り返っている。 その後、B-24は大編隊を組んで昼間に堂々と来襲するようになり、1944年9月1日には55機のB-24が来襲した。昼間は戦力温存策をとっていた美濃部ら日本軍戦闘機隊は迎撃を自重していたので、B-24は海軍の高角砲で2機を撃墜されながらも、悠々と爆弾を投下してゆき、日本軍は3機の航空機が地上で撃破され、そのうちの2機が戦闘901の月光だった。 一方的に地上で月光を撃破されて激昂した美濃部は、第153空司令の高橋農夫吉大佐に、夜間戦闘機隊である戦闘901での昼間出撃を申し出て、翌9月2日には三号爆弾を搭載した月光4機、零戦2機を出撃させた。しかし、美濃部が命じた夜間戦闘機隊の昼間出撃は全くの裏目に出て、B-24の護衛についていたP-38の20機が上空より夜間戦闘機隊に襲いかかった。奇襲を受けた月光と零戦は慌てて三号爆弾を投棄すると、B-24の迎撃を諦めて離脱しようとしたが、零戦1機がたちまち撃墜され、月光1機も被弾して不時着水して機体と操縦士が失われた。そんななかで、中川義正一飛曹が操縦する月光は、雲のなかに突入して一旦P-38の追撃をかわすと、空襲を終えて帰還しようとしていたP-38の1機を捉えてこれを撃墜した。中川の個人的な活躍はあったが戦闘としては惨敗であり、全く敵戦闘機の護衛を想定していなかった美濃部は「これは大変なことになった」と考えて、自分から申し出た夜間戦闘機による昼間出撃をたった1回の出撃で断念せざるを得なくなった。 殊勲の中川は、9月5日に夜間防空哨戒中に夜間爆撃に来襲したB-24を発見、搭載の斜銃で攻撃しようと接近したところ機銃が故障していたので、体当たり(対空特攻)を決意し「ワレ体当りをする覚悟あり」と打電すると、B-24に体当りを敢行した。その打電を聞いた美濃部は「死なせてはいかん」と焦って「何、体当りだ、それはいかん」と電信員に向かって叫んだが、中川機の体当りを止めることはできなかった。幸運にも中川の月光は損傷しただけで無事帰還し、体当たりされたB-24はバランスを崩して高度を下げていったので撃墜と認定された。美濃部は損傷した月光で無事着陸した中川と泣きながら握手をし、その殊勲を称賛したが、この対空特攻がのちの特別攻撃隊編成の機運を盛り上げることになったと猪口は回想している。この撃墜と認定されたB-24「ミス・リバティ号」は、甚大な損傷で油圧系統のパイプが切断されながらも、ローランド・T・フィッシャー中尉の巧みな操縦で最寄りのオウィ島に不時着したが、全損で廃棄となった。中川の決死の活躍はあったものの、月光夜間戦闘機隊の本来の任務である敵爆撃機迎撃任務で思うような戦果を上げることが出来ない美濃部は、戦闘901を「新戦術」と称して従来の夜間の空戦任務から、夜間の機動部隊等への銃爆撃や偵察任務といった夜襲による進攻的戦法にシフトしていくこととした。 9月9日には、進攻的戦法を実践すべくアメリカ軍機動部隊への夜襲を計画し、稼働全機となる月光9機、零戦2機をレイテ島のタクロバン飛行場に集結を命じている。美濃部もダバオ第2飛行場からタクロバンに向かう予定であったが、出発前にアメリカ軍艦載機の空襲を受けて、ダバオに配備されていた戦闘901の月光3機と零戦1機は全機被弾、うち1機が大破、2機が中破し、また美濃部は指揮下の作戦機を地上で撃破されてしまい、拘りを持って進めてきたアメリカ軍機動部隊への夜襲作戦を、自分の指揮下の航空隊が実施しながらまったく関与できなくなってしまった。作戦は美濃部不在でも決行されて、深夜に森国雄大尉を指揮官として三号爆弾を搭載した月光3機がフィリピン東方洋上に索敵攻撃に出撃している。この攻撃は、美濃部の遺稿によれば、森が率いる「レイテ島分遣隊」単独の作戦とされているが、実際には戦闘901の月光の稼働機全機が集結しての総力攻撃作戦であった。月光隊はアメリカ軍機動部隊に接触することなく2機が未帰還で指揮官森国雄大尉を含む4名が戦死、もう1機もF6Fヘルキャットの攻撃で偵察員が戦死し、操縦の陶三郎上飛曹が損傷した機体でどうにか10日の未明に生還するという一方的な惨敗を喫して失敗に終わっている。
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