第一遣支艦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 18:32 UTC 版)
1932年(昭和7年)2月2日に編制された第三艦隊は、1937年(昭和12年)7月の支那事変勃発をもって増強された。同年10月20日に支那方面艦隊と第四艦隊が新編されると、第三艦隊司令長官が支那方面艦隊司令長官を兼務した。翌年2月1日に第五艦隊が新編されて支那方面艦隊に編入され、この時点での日本海軍は、連合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)、支那方面艦隊(第三艦隊、第四艦隊、第五艦隊)、練習艦隊となった。 支那事変(日中戦争)以外の状況に対処するため、三コ艦隊を擁していた支那方面艦隊は縮小されることになった。支那方面艦隊は中国方面作戦に専念し、独立艦隊となった第四艦隊は内南洋諸島から蘭印方面を担当、有事においては第三艦隊(フィリピン方面担当、1941年4月10日新編)、第五艦隊(日本列島東方海域、1941年7月25日新編)、第六艦隊(潜水艦部隊、1940年11月15日新編)を編制する。 1939年(昭和14年)11月15日、第三艦隊は第一遣支艦隊に改称した。第一遣支艦隊は、引き続き上海を拠点に揚子江流域で行動した。主な戦力は武漢に駐留する陸戦隊の漢口方面特別根拠地隊と、揚子江の航路確保のために全ての砲艦を集約した第11戦隊である。これに九江や南京に駐留する若干の陸上部隊が加わる。1942年(昭和12年)1月15日、漢口方面特別根拠地隊は縮小のうえ漢口警備隊に降格した。1943年(昭和13年)8月20日、第一遣支艦隊は解隊され、揚子江方面特別根拠地隊が新編された。任務の性格は降格前と変わりなく、陸上部隊は武漢・南京・九江など拠点の駐留、砲艦は揚子江の航路確保に従事した。末期には特攻艇震洋の部隊も配備された。ほとんどの砲艦を喪失したものの、揚子江特根は終戦まで陸上での戦闘を継続した。
※この「第一遣支艦隊」の解説は、「遣支艦隊」の解説の一部です。
「第一遣支艦隊」を含む「遣支艦隊」の記事については、「遣支艦隊」の概要を参照ください。
- 第一遣支艦隊のページへのリンク