社会主義的財産保護法
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「ホロドモール」の記事における「社会主義的財産保護法」の解説
1932年8月7日にはスターリンが法案を執筆した「国営企業、コルホーズ、協同組合の財産保護、および社会的(社会主義的)所有権の強化について」が布告された。この社会主義的財産保護法(コルホーズ財産保全法)によって、コルホーズの農産物はすべて国家の財産(社会主義的財産)であるため、許可を得ずにこれを窃盗した場合は、「人民の敵」とされ、全財産没収をともなう死刑、または10年以上の自由剥奪となった。収穫された穀物は「社会主義的財産」とみなされ、食料の備蓄なども「窃盗」とみなされた。スターリンは1933年1月にはこの法をもって「革命の法的基礎」にすると述べた。 ウクライナの共産党新聞では「組織的に穀物を掠め取った富農たち」の処刑記事を次々に掲載し、ハリコフ州では50件が、オデッサ州では3つの事件が報道されたが、そのほとんどが小麦窃盗事件だった。コパニ村では富農と準富農の集団が倉庫に穴をあけて、小麦を盗んだために二人が銃殺となり、ジトーミル州では10歳の少女が畑で10kgの小麦を持っていたために、その父が銃殺された。ジャガイモの盗みで10年の刑が下された。 1932年中頃、ウクライナ農民300万人が都市への移動をはじめ、外国の共産党員は「彼らはパンとじゃがいもが欲しいだけ。」「人々はいたるところで盗んでいる。」と非難した。農民は都市へ出たあと装飾品や絨毯などと食糧を交換した。 1932年8月、スーミ州のミハイリフカ村では、コルホーズ議長が農民の同意なしに穀物を供出できないと述べたために逮捕された。翌日、暴動が起きて議長の釈放や割り当て減額などが要求されたが、67人が逮捕されて有罪となり、議長ら数人が銃殺された。村の役人が飢えた農民に食糧を与えると、「食糧の浪費だった」と党は報告した。 1932年10月12日、OGPU長官代理のA.アクゥーロフ(ロシア語版、英語版)とM・M・ハタエーヴィチ(ロシア語版、英語版)が二度目の徴発を行った。 ポルタヴァ州のカルシン村では妊娠中の女性が小麦を引き抜いたために板で打たれ、死亡した。ビリスケ村では、夜中コルホーズのじゃがいもを掘っていた母親が射殺され、残された三人の子供は餓死した。別の村では、とうもろこしを拾った者が鞭で打たれて死んだ 。また、ある活動分子は農民の家宅捜索で樹皮や木の葉を小麦にまぜた袋を見つけると、池に投げ捨てた。墓地には、遺体だけでなく、瀕死のものも放置され、数日生存していたこともあった。スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた[要出典]。 他方で、共産党員や活動分子などは食糧の割り当てもよく、ポグレビーシチャでは共産党官僚のための食堂ではパン、肉、フルーツ、菓子、珍味などが供され、飢えた農民が侵入しないように警察が護衛した。また、農婦たちは、共産党員の官吏相手に売春をして食糧を得た。
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社会主義的財産保護法
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「ソビエト連邦における農業集団化」の記事における「社会主義的財産保護法」の解説
飢饉が発生していたにもかかわらず、スターリン政権は締め付けを強化した。1932年8月7日に成立した社会主義的財産保護法は、「社会主義的財産」とみなされたものへの罪を厳罰化し、全財産没収をともなう死刑、または10年の自由剥奪に処された。穀物は「社会主義的財産」とみなされた。スターリンは、反ソ連・反共産党の「敵階級の残存」勢力が、コルホーズの国有財産を窃取し横領していると主張した。スターリンによれば、農業の集団化以前には農民はたがいに切り離されていたため、反革命分子が潜入することは難しかったが、集団農場になると、反革命分子の潜入活動は大きな効果をあげることができるとした。 さらに、1932年末から1933年初めに国内パスポートが義務づけられたが、コルホーズ農民には国内パスポートが交付されなかった。このため、農民は仕事をもとめて都市に行くこともできず、土地に緊縛された。農民にパスポートが交付されなかったのは:農民の都市流出をくいとめるためであったが、実際には、都市でも労働力が不足していたため、鉱山や建設地で雇用されることもあった。しかし、農民の移動は厳しく制限され、農奴のように土地に緊縛されたのはたしかであった。 またコルホーズに機械技術を提供するMTS(エム・テー・エス、機械・トラクター・ステーション)と政治部がソフホーズに設置された。1933年1月に設置された政治部では、政治部長はMTS副部長となり、また副部長はOGPU代表でもあった。この政治部は、コルホーズの役員や党員を多数逮捕したり、更迭した。政治部の過度な行動は、スターリンとモロトフが1933年5月に「無秩序な逮捕」を抑制するよう求めるほどだった。1934年11月に政治部は廃止された。 ウクライナ指導部の転覆を試み、1933年7月、スクルイプニクが自殺した。同様の政治的引き締めは、ベロルシア、中央アジア、ザカフカースでもみられた。 集団化とクラーク撲滅が進展していくのと並行して、スターリンは党内でも「反革命分子」を摘発する「大粛清(大テロル)を展開していた。
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