共産党官僚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:03 UTC 版)
「ラーザリ・カガノーヴィチ」の記事における「共産党官僚」の解説
1918年、カガノーヴィチは赤軍宣伝部の政治委員となった。1918年5月から1919年8月、ニジニ・ノヴゴロド県の幹部会議長であった。また、1919年から1920年はヴォロネジ県の指導者であった。1920年から1922年、彼はトルクメニスタンにおいて、地方のイスラム教反乱勢力(バスマチ)に対するボリシェビキ闘争の指導者の一人であった。そして、その地方の敵対者に対する討伐においても、引き続き指揮を執った。 1922年5月、ヨシフ・スターリンがソビエト連邦共産党書記長になると、直ちにカガノーヴィチを側近とし、書記局の「組織部」の長に転任させた。この部署は共産党機構内のすべての役職に対して責任を負っていた。カガノーヴィチは、ここで働きながらスターリンの支持者たちを党官僚社会における重要な地位に就ける手助けをした。その地位において、彼はその高い仕事力、スターリン個人への忠誠、そして彼自身の個人的見解の欠如が認められた。彼は、スターリンからのあらゆる命令も必ず実行すると公言していたが、その当時はまだ珍しいことであった。 1924年、カガノーヴィチは中央委員会の委員となった。1925年から1928年にかけて、カガノーヴィチはウクライナ共産党第一書記の地位にあった。ウクライナにおけるカガノーヴィチは、クラーク(富農)に対するその経済的抑圧の徹底方針、そして「社会主義へのクラークの平和的統合」を掲げるニコライ・ブハーリンのより穏健な政策に対する頑強な反対で有名であった。ウクライナ共和国における彼の在任中、ウクライナ化政策はロシア化へと変更され、そして多くの党官僚が「ウクライナ民族主義者」として粛清された。
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