共産党掃討と日中戦争初期の活躍
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「湯恩伯」の記事における「共産党掃討と日中戦争初期の活躍」の解説
その後、湯恩伯は中国共産党(紅軍)討伐に参加し、軍功により第2師師長に昇進した。しかし、1932年(民国21年)春の第3次掃討では大敗を喫し、一時解職処分を被っている。それでもまもなく第89師師長として復帰し、第5次掃討では第10縦隊指揮官として、紅軍を長征に追い込む上で軍功があった。長征でも紅軍の追撃を担当し、1935年(民国24年)に13軍軍長に昇進、さらに陝西剿匪弁事処主任に任ぜられた。翌1936年(民国25年)11月、綏遠省政府主席兼第59軍軍長の傅作義が蒙古軍を迎撃した際には、湯も傅の支援に回り、その勝利に貢献している(綏遠事件)。 日中戦争が勃発すると、湯恩伯率いる第13軍は傅作義率いる第7集団軍に編入される。湯は要害として知られる昌平南口鎮を守備し、日本軍と激戦を展開した。1937年(民国26年)9月、湯は第20軍団司令に昇進し3個軍を率いることになる。翌1938年(民国27年)、第20軍団は第5戦区に編入され、徐州外囲で日本軍を迎撃、後の台児荘の戦いの勝利に貢献した。
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