共産党応援とテレビ局の報復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)
「前田武彦」の記事における「共産党応援とテレビ局の報復」の解説
詳細は「夜のヒットスタジオ」を参照 前田は1973年の夏、参議院議員選挙大阪府選挙区補選で、日本共産党公認の沓脱タケ子を応援。最初は「沓脱さんと言う人をあまり良く知らないし、あまり面白くないなあ」と乗り気ではなかったが「会って激励するくらいなら」として引き受けた。大阪に着くや否や出迎えていた運動員や支援者らに乗せられるがまま、応援演説もやる羽目になったという。応援演説中に「沓脱さんが当選したら、当日の夜ヒットでバンザイをします」と発言。結果、沓脱は自民党公認の森下泰を1万票余の差で破り当選。前田は約束を守り、番組のエンディングで万歳をした。直後は特に問題にならなかったが、この選挙が国政補欠選挙で共産党候補が自民党候補を初めて破った選挙であり、右派の週刊サンケイが「マエタケ、共産党候補当選にバンザイ」と記事にしたことなどから騒動に発展。それが反共・右派である鹿内信隆の逆鱗に触れ、同年秋には夜ヒットの司会降板に繋がった。さらに、その他の出演番組からも降板、もしくは番組自体が打ち切りになることが相次ぎ、前田はその後、数年間に渡ってメディア出演の機会の大部分を失うこととなり、テレビ業界で冷飯を食う羽目になる。その一方で、ラジオは1978年4月から1979年12月まで文化放送平日朝の生ワイド番組『マエタケの朝は自由大通り』のパーソナリティを務めた。
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