共産党掃討戦での思想の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:44 UTC 版)
「吉鴻昌」の記事における「共産党掃討戦での思想の変化」の解説
それでも吉鴻昌は、1929年(民国18年)10月に馮玉祥と蔣介石との戦争が開始されると、寧夏から出撃して馮側についた。翌年3月、代理総司令鹿鍾麟は吉の姿勢を疑い、突然これを拘留する挙に出るが、幸いにして馮の口添えがあって吉は難を逃れた。中原大戦では吉率いる軍は蔣軍相手に勇戦し恐れられたが、最終的には反蔣軍は敗北してしまう。戦後、蔣は吉の能力を高く評価してこれを篭絡せんとし、吉を第22路軍総指揮兼第30軍軍長に任ずるなど優遇した。 1930年(民国19年)11月から、吉鴻昌は中国共産党の鄂豫皖根拠地包囲攻撃(第1次共産党掃討戦)に参加したが、大敗を喫してしまう。翌1931年(民国20年)からは、共産党の地下工作員からの働きかけがあり、さらには根拠地を吉自ら偵察するなどしているうちに、共産党の思想へと次第に傾き始めた。3月の第2次共産党掃討戦では、吉は戦闘参加を暗にボイコットする。5月、共産党に呼応した蜂起を行おうとまで企んだが、すでに吉の姿勢を察知していた蔣の軍事的・政治的手配でそれは決行できなかった。9月から吉は部隊を離れて外遊に赴き、日本や欧米諸国を視察した。
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