共産党幹部として
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「アンドレイ・アンドレーエフ」の記事における「共産党幹部として」の解説
ソ連成立後はウラジーミル・レーニン死去直後の1924年2月に共産党書記局書記に選出される。1925年12月に解任されたが、妻同士も親友だった、全連邦共産党(この頃ロシア共産党から改称される)書記長、ヨシフ・スターリンの側近の一人として出世を続け、1926年7月に政治局員候補に昇格、1928年1月に北コーカサス党地域委員会の第一書記、1930年末に人民委員会議議長代理兼労農検査人民委員(それぞれ列国行政府の副首相、大臣に相当)および中央統制委員会議長に就任。1931年にはいずれのポストから解任されるが、その前後の同年10月2日に鉄道人民委員に就任する。反対する農民を強制収容所に送る等スターリンによる農業集団化を押し進めた。1932年に政治局員に昇格するが、この頃難聴及び腸カタルを患う。 1935年2月に書記局書記に再選出される。大粛清下では1937年2月23日に開催された中央委員会総会でニコライ・ブハーリンを「党の信用を悪用した」と非難、ブハーリンと前人民委員会議議長、アレクセイ・ルイコフの逮捕に関与したのみならず、同年夏にはヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国の首相、ハインリヒ・ルフ及びマシーントラクターステーションの職員らをトロツキストまたは右翼クラーク組織の一味として大量逮捕し、スターリンに報告した後、スタリナバード等で各中央アジア連邦構成国の共産党幹部達を多数逮捕した。スタリナバードだけでも人民委員、中央委員会幹部、同書記合わせて65人逮捕したという。大粛清が鎮静化した後は一部の面々を粛清から守った事もあったが、娘のナターシャ・アンドエーレワは後年受けたインタビューで全ての犯罪について無罪を主張していた。またナターシャは両親はソ連を滅ぼす破壊分子及び第5列を始末すべきだと考えていたとも証言している。 1938年12月にソ連邦最高会議議長に就任、翌1939年3月に大粛清を主導するも、その行き過ぎやアルコール中毒ぶりがスターリンの不興を買っていたニコライ・エジョフに代わり、中央統制委員会から改編されたソ連共産党中央統制委員会議長に就任、第二次世界大戦中は1943年12月に農業人民委員も兼ね、軍事輸送や少数民族の強制移住に関与した。
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