共産党幹部から潜行へ
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1945年8月26日に仮出獄。これは政治犯のうち、刑期が近く終わるような者から少しずつ釈放していたことによる。10月4日にGHQの「人権指令」によって政治犯が全面的に釈放され、共産党再建の動きが始まるといち早く入党した。伊藤は得意の農民運動を中心に活動し、その状況を書記長の徳田球一に報告していた。1946年2月の第五回党大会で、党中央委員・書記局員に、5月には政治局員に就任する。1946年の第22回衆議院議員総選挙と1947年の第23回衆議院議員総選挙に東京7区から立候補するが、いずれも落選した。伊藤は徳田の片腕として党の重職を担った。 1949年2月、アメリカ陸軍省はゾルゲ事件に関する報告(コーネル報告、またウィロビー報告とも)を発表し、日本の新聞にも転載された。この中で「伊藤が北林トモの名を供述したことが事件発覚の発端である」という説が唱えられた。このとき共産党側は志賀義雄が「この噂については1946年3月に厳密に調査をすすめた結果、当時の特高が謀略と行賞のためにおこなった作文で、北林と伊藤には組織上の連絡はない」という趣旨の談話を発表している。 1950年、コミンフォルムの批判により党が分裂状態になると、徳田に近かった伊藤は所感派に属した。伊藤は対立する国際派の非難にさらされた。当時の伊藤にはウィロビー報告での「告発」に加え、戦時中に亡命や非転向での闘争経験なく幹部となったことへの羨望や嫉妬、さらに女性問題など、攻撃の材料には事欠かなかったためである。所感派内部にも伊藤をスパイとみる者がいた。 6月にGHQの公職追放と7月に団体等規正令の出頭命令を拒否した団規令事件により政府から逮捕状が出されたことを機に地下に潜行した。同年10月に徳田球一が中華人民共和国に去って「北京機関」を組織した後、徳田が全体方針立案、国内は志田重男・椎野悦朗と伊藤の三者合意を中心とした指導体制となる。このときすでに徳田は「安静にして余命4年」という状況(幹部以外には秘匿された)で、ほどなく徳田の後継をめぐる争いに伊藤も巻き込まれることとなった。 この間日本国内では死亡説、外国亡命説など諸説が流れ、朝日新聞が「宝塚市の山中で伊藤と接触した」という架空の記事を載せた事件(伊藤律会見報道事件)が起きたのは、この年9月のことである。 1951年には北京機関内部での対立が波及し、7月には徳田の自己批判に続いて伊藤も自己批判をおこなう。伊藤は後年、志田重男とその側近からはあからさまな批判や妨害を受けたと長谷川浩への手紙で述べている。武装闘争路線の新綱領を採択した10月の第5回全国協議会でも伊藤は非難された。このあと、中国に密航し徳田、野坂参三、西沢隆二らのいた北京機関に合流する。この中国行きは表向きは「徳田からの招請」として伝えられた。伊藤は党内情勢から、行けば逮捕・投獄される懸念も抱いたが、最後は党を信じる形で同意した。「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本海を渡った伊藤は北京に到着し、翌1952年5月1日より開始された日本向けの地下放送・自由日本放送の指導にあたった。中国では「顧青」という中国名を名乗った。
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