共産党幹部から潜行へとは? わかりやすく解説

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共産党幹部から潜行へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 01:05 UTC 版)

伊藤律」の記事における「共産党幹部から潜行へ」の解説

1945年8月26日仮出獄。これは政治犯のうち、刑期近く終わるような者から少しずつ釈放していたことによる10月4日GHQの「人権指令」によって政治犯全面的に釈放され共産党再建の動きが始まるといち早く入党した伊藤は得意の農民運動中心に活動し、その状況書記長徳田球一報告していた。1946年2月第五回党大会で、党中央委員書記局員に、5月には政治局員就任する1946年第22回衆議院議員総選挙1947年第23回衆議院議員総選挙東京7区から立候補するが、いずれも落選した伊藤徳田片腕として党の重職担った1949年2月アメリカ陸軍省ゾルゲ事件に関する報告コーネル報告、またウィロビー報告とも)を発表し日本の新聞にも転載された。この中で伊藤北林トモの名を供述したことが事件発覚発端である」という説が唱えられた。このとき共産党側は志賀義雄が「この噂については1946年3月厳密に調査すすめた結果当時特高謀略行賞のためにおこなった作文で、北林伊藤には組織上の連絡はない」という趣旨談話発表している。 1950年コミンフォルム批判により党が分裂状態になると、徳田近かった伊藤所感派属した伊藤対立する国際派非難さらされた。当時伊藤にはウィロビー報告での「告発」に加え戦時中亡命や非転向での闘争経験なく幹部となったことへの羨望嫉妬、さらに女性問題など、攻撃材料には事欠かなかったためである。所感派内部にも伊藤スパイとみる者がいた。 6月GHQ公職追放7月団体等規正令出頭命令拒否した団規令事件より政府から逮捕状出されたことを機に地下潜行した。同年10月徳田球一中華人民共和国去って北京機関」を組織した後、徳田全体方針立案国内志田重男椎野悦朗伊藤三者合意中心とした指導体制となる。このときすでに徳田は「安静にして余命4年」という状況幹部以外には秘匿された)で、ほどなく徳田後継をめぐる争い伊藤巻き込まれることとなったこの間日本国内では死亡説外国亡命説など諸説流れ朝日新聞が「宝塚市山中伊藤接触した」という架空記事載せた事件伊藤律会見報道事件)が起きたのは、この年9月のことである。 1951年には北京機関内部での対立波及し7月には徳田自己批判続いて伊藤自己批判をおこなう。伊藤後年志田重男とその側近からはあからさまな批判妨害受けた長谷川浩の手紙で述べている。武装闘争路線新綱領を採択した10月第5回全国協議会でも伊藤非難された。このあと中国密航し徳田野坂参三西沢隆二らのいた北京機関合流するこの中国行きは表向きは「徳田からの招請」として伝えられた。伊藤党内情勢から、行けば逮捕・投獄される懸念抱いたが、最後は党を信じる形で同意した。「人民艦隊」と呼ばれた漁船日本海渡った伊藤北京到着し、翌1952年5月1日より開始され日本向け地下放送自由日本放送指導あたった中国では「顧青」という中国名名乗った

※この「共産党幹部から潜行へ」の解説は、「伊藤律」の解説の一部です。
「共産党幹部から潜行へ」を含む「伊藤律」の記事については、「伊藤律」の概要を参照ください。

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