社会主義者による階級闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:30 UTC 版)
「朝鮮独立運動」の記事における「社会主義者による階級闘争」の解説
1920年代に知識人の間で、三・一運動の弾圧をきっかけとした民族主義勢力の衰退や社会主義思想におけるマルクス・レーニン主義の台頭が起きると、政治的・経済的面で社会主義に覚醒した労動者や農民達が朝鮮半島でも増加した。彼らは、第一次世界大戦後の戦後恐慌の中で労動運動や小作争議を通じた大規模な階級闘争を展開することとなり、この時代の民族運動において大きな役割を果たすこととなった。 1920年4月には、京城で『労働社会の組織と制度の改善』を最終目的とした「朝鮮労働共済会」が結成され、その後は「朝鮮労働連盟会」、「朝鮮労農総同盟」への改編を経て、1927年9月に「朝鮮労働総同盟」「朝鮮農民総同盟」の2組織に分離することとなった。 他にも、1921年9月に釜山で起きた埠頭労動者5,000人によるストライキ闘争を皮切りに、半島全土において、長時間労働や不当な違約金の徴収、日本人労働者との賃金格差などといった、朝鮮人労働者達が自らの劣悪な労働環境の改善を求めたストライキ闘争が多発するようになった。その中でも特に大規模だったのは、1923年8月に平壌の靴下工場で起きた労動者 2,000名によるストライキ、1923年9月から 1年以上に亘って展開された全羅南道新安郡岩泰島における小作農民の地主を相手にした闘争、1929年1月から3ヶ月の間続いた元山ゼネスト、1930年1月に3,000名の女性労動者達が1ヶ月間に亘って行った、釜山朝鮮紡織ストライキ闘争だったとされている。 このような労農闘争は、徐々に暴力的なものとなり、1930年5月には咸鏡南道新興の張風炭鉱の労動者達300人が、労働組合の設立に反対する日本人資本家と朝鮮総督府警察の弾圧に対して、炭鉱施設と資本家の私宅を破壊し、威嚇射撃を続ける警察に対して、斧やハンマー、棍棒などによる肉弾戦で迎え撃とうと試みた。1930年7月には、咸鏡南道端川で2,000人の農民達が総督府による山林政策に反対して郡庁を包囲し、多数の死傷者が出る騒ぎとなった。
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