社会主義者からの転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:33 UTC 版)
旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎や大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。 苦い経験をしつつも東京の堺利彦、山川均、大杉栄、高畠素之のもとで社会主義を学び、堺や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会や借家人同盟をつくり、左翼運動を行う。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。
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