メタクサスライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
メタクサスラインはギリシャ東マケドニア軍が防衛を担当しており、司令官コンスタンチノス・バコプロス中将の指揮下に第7、第14、第17歩兵師団が所属していた。メタクサスラインはユーゴスラビア国境からブルガリアのゴツェ・デルチェフ方面に東へ伸び、その後エーゲ海へ抜ける総距離170kmに及ぶものだった。メタクサスラインは200,000名の将兵を駐留できるように設計されていたが、兵力不足で約70,000名しか配属できなかった。そのため、ラインには薄く広く兵を配備するしかなかった。 メタクサスラインへのドイツによる攻撃は第XVIII山岳軍団の2個山岳師団に支援された1個歩兵連隊によって開始された。しかし、メタクサスラインのギリシャ軍の反撃により、これは限定的な成功しか収められなかった。初日、ドイツ第5山岳師団は「強力な航空支援にも関わらず、ルペル峠で撃退され犠牲者を多く出した」と報告した。24箇所存在したメタクサスラインの防衛陣地の内、2箇所が撃破され、後に全て撃破されたが、ルペル、エキノスなど要塞化した都市はその後3日間、ドイツ軍の攻撃に耐えた。 メタクサスラインは3日間は耐えたが、ドイツ軍による砲撃、急降下爆撃の前に撃破され、ドイツ軍の突破を許した。この突破はドイツ第6山岳師団によって行われたもので、高さ約2,100mの雪に覆われた山脈を横断し、思わぬ場所からギリシャ軍を撃破、突破したものだった。師団は4月7日夕方、テッサロニキの鉄道線に到着し、他の第XVIII山岳軍団の部隊は困難な進撃を行っていた。同日、ドイツ第5歩兵師団は強化された第125歩兵連隊と共にストルマ川の両岸に沿ってギリシャ軍を攻撃した。ドイツ第72歩兵師団はゴツェ・デルチェフから山を越えて進撃し、山岳装備、砲兵等の不足というハンデを背負いながらも4月9日夕方にメタクサスラインの突破に成功、セレス北東まで進撃した。しかし、東マケドニア軍司令官バコプロスが降伏した後も、孤立した要塞はドイツ軍が大型砲で攻撃を開始するまで何日も持ちこたえ、一部ギリシャ将兵が船で脱出する時間を作り出すこととなった。
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