戦略的誤算
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:12 UTC 版)
ルーズベルト大統領は、対日無条件降伏を目指すカイロ宣言に中国を参加させた。ルーズベルトは蔣介石を巨頭として祭り上げ士気を高めさせようとした。この政策は蔣介石に対する優遇政策に見えるが、中国側にとっては余りにも過酷な課題であった。当時中国は1942年にビルマで日本軍が援蔣ルートを遮断した事で、アメリカからの軍事物資が空輸によるヒマラヤ越えのみとなって物資不足で戦局が不利であり、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線と違い中国戦線にはアメリカ軍の援軍がいなかった。 さらにアメリカからの物資が不足している事に蔣介石は不満を募らせていた。更に中国国民党軍と日本支那派遣軍は装備や兵士の士気に圧倒的な差があった。中国国民党軍はドイツ式やアメリカ式の装備と訓練を受けた一部の中央軍(蔣介石直属の軍)の部隊を除けばゲリラと軍閥の寄せ集めのような集団であり士気は低く1943年頃に中国は将軍18名、高級将校70名、兵士50万人が日本軍に投降していた。逃亡を防ぐための督戦隊もあった。1945年1月のレド公路の打通まで中国側の軍事物資がヒマラヤ越えという不利な点を考慮すれば、日本と単独講和で休戦して連合国の戦線から離脱する事が蔣介石政権崩壊を防ぐための得策であった。 一方、同時期の1943年にイタリアは軍事的な考慮から枢軸国の戦線から離脱し、日独伊三国同盟の一角が崩れた。しかし英米首脳はカイロ会談で日本への無条件降伏を目指しており、そのためには中国大陸にいる100万人の日本陸軍を撃ち破ってくれる味方の地上軍が必要であり、その役割を蔣介石率いる中国軍に当てはめた。カイロ会談で行われた対日戦略は、テヘラン会談におけるソ連の役割を無理矢理に中国国民党に当てはめたという意味で無理のある戦略が立てられ、また中国から日本本土への爆撃計画も行われ、1943年11月に新竹空襲が実施された。カイロ宣言後に、スティルウェルや国務省の外交官からは次に日本軍の攻勢に晒されれば蔣介石政権が倒壊させられると危険信号が出された。一方カイロ宣言を知った日本陸軍は自分たちに無条件降伏を要求した蔣介石に激怒し、蔣介石の軍隊を粉砕させようと大攻勢を始めた。 そもそも蔣介石自身がスティルウェルによる中国戦線での指揮権と中国軍の抜本的改革に反発したため、大陸打通作戦における中国国民党軍は蔣介石の指揮下の弱小な軍隊だった。1944年の春、スティルウェルの予告どおり、国民党軍は大陸打通作戦で日本軍に大敗してもはや中国は勝てる見込みがなかったが、ルーズベルトは蔣介石に日本と単独講和で休戦させず戦争継続を唱え、半年後に国民党軍が総崩れになってしまう。ルーズベルトは中国本土から日本への空襲計画を考案したが、スティルウェルは空輸による戦略物資の輸送は限界がある上、中国内からの日本本土爆撃は日本軍の猛烈な反撃や更なる内陸侵攻をもたらし重慶政権が危うくなると反対しており、それが的中したのである。 ルーズベルトの提案した、中国に日本を無条件降伏をさせる対日戦略 と中国大陸からアメリカ軍の日本空襲計画、米英ソの連合国三巨頭に中国を加える事によって対日戦争での中国の士気を高める「四人の警察官構想」は彼の認識不足による過大なものであった。彼は劣勢な中国戦線を前述の激励させて士気を高める事によって解決させようとしたのであるが、中国は到底米英ソと共に第二次世界大戦を完遂する事について行けない事に気がつかなかった。 硫黄島の戦いや沖縄戦で見られるように日本軍の抵抗は頑強であり、その抵抗ぶりにはアメリカ軍が苦戦を強いられた程である。それほど頑強な抵抗をする日本軍(支那派遣軍)100万人を中国側が単独で無条件降伏させるような事はほぼ不可能であった。ルーズベルトがスターリンにソ連軍の対独戦勝後に対日参戦を要請したのは、日本を無条件降伏させるためにアメリカ軍の損害を増やさないためである。余談であるが、ソ連は自国内に侵攻してきたドイツを英米の協力の元押し戻し、無条件降伏させるために第二次世界大戦で最大の戦死者を出している。 1944年の秋頃にようやくルーズベルトは蔣介石の実力を認識し、対日無条件降伏では戦争を長期化させるとして、一日でも早く日本を降伏させるために日本への無条件降伏の内容を譲歩する方針を出した。 1945年2月の米英ソのヤルタ会談は中国代表の参加が認められず、ルーズベルトはスターリンに対して蔣介石の承諾なしにソ連の対日参戦や満州の利権確保を認め、朝鮮の南北分割まで取り決めた。これを伝え聞いた蔣介石は独自に日中の二ヶ国間和平交渉である繆斌工作を開始し、ソ連の満州侵入前に戦争を終結させようとした。これには日本側の小磯國昭首相も賛成・期待していたが天皇や重臣の支持が得られず逆に小磯内閣の総辞職を招いた。 1945年になっても中国には支那派遣軍を弱体化させる事は出来ず、1945年のポツダム宣言受諾の際に支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と無条件降伏に反対した(しかし実際には芷江作戦や湘桂からの撤退戦で中国軍に敗北していた)。
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