戦闘後の経過・講和成立と両軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 21:15 UTC 版)
「第三次パーニーパットの戦い」の記事における「戦闘後の経過・講和成立と両軍の撤退」の解説
大敗したマラーター軍は四散して逃げまわったが、アフガン軍の騎兵がパーニーパットから20マイルもの範囲を追撃したことにより、戦闘員・非戦闘員ともに多数の死者を出した。この追撃戦で、ジャンコージー・ラーオ・シンディアやイブラーヒーム・ハーン・ガールディーなどが捕縛、殺害された。 そのうえ、このパーニーパット地域に居住していたジャート、アヒール、グージャルといったカースト集団の攻撃を受けた。略奪攻撃にさらされたマラーターはここでも大量の死者を出した。 とはいえ、アフマド・シャー・ドゥッラーニーもまた、同様にジャートなどの勢力に悩まされていた。彼は北インドを直接支配することは考えておらず、パンジャーブ一帯にその勢力をとどめておく程度に考えていなかった。そのうえ、アフガンスタンの本国で反乱が起こったため、引き返さなくてはならなくなった。 また、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオも戦闘のさなか軍を率いて北上していたので、アフマド・シャーは使者を送り、講和を成立させた。 同年3月、マラーター軍はデカンへ、アフガン軍はアフガニスタンへとそれぞれ軍を引き上げ、アフガン・マラーター戦争はここに終了した。その際、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは新たな皇帝となっていたシャー・アーラム2世を追認し、マラーターに廃位された宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンを宰相に任じている。
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