戦闘後の経緯
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この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日に帰国命令が発せられ、加藤清正は11月18日に蔚山倭城より撤退を完了して帰国した。 慶州に撤退していた麻貴は日本軍の撤退後の蔚山倭城を接収し、これを自らの戦功として報告した。このため、明では陳璘、劉綎に続いて3番目に麻貴の功績が評価されている。
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戦闘後の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:53 UTC 版)
稷山に日本軍が進出し都に迫ると明・朝鮮軍では漢江を防衛線として守りを固めるが、漢城では日本軍の接近でパニックに陥っており、人々は逃走をはかりほとんど無人となるほどであった。この時の明軍は兵力が少数にすぎず弱体であり、朝鮮軍は既に潰散していた。漢城は維持できる常態にはなく、朝鮮の朝臣たちは我先に都を出て避難することを献策する。 一方日本の右軍は稷山での戦闘の後、9月10日には京畿道の安城・竹山まで前進した。これにより慶長の役の発動当初から定められていた戦略目的は達成された。このため、当初からの計画に従い、京畿道、忠清道、全羅道の各日本軍はそれぞれ反転して朝鮮半島南岸に還り築城を開始する。朝鮮の朝廷では日本軍の反転理由が分からず日本軍の罠ではないかと疑った。 朝鮮半島南岸で築城を急ぐ日本軍に対し明・朝鮮軍は反攻を企画し、建設中の城塞群の内最東端に位置する蔚山城に目標を定めて攻撃した。この蔚山城の戦いは12月22日から始まったが、加藤清正等は城を堅く守り、毛利秀元らが救援して翌年1月4日、明・朝鮮軍を大破する。
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