戦闘後の経過と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:12 UTC 版)
「アクロイノンの戦い」の記事における「戦闘後の経過と影響」の解説
アラブ軍に対する大規模な会戦において達成した最初の勝利であったことから、アクロイノンにおける戦いはビザンツ帝国にとって大きな成功となった。レオン3世はこれを神の恵みを取り戻した証拠と考え、数年前に採用した聖像破壊政策に対する自身の信念を強めることになった。また、この成功によってビザンツ帝国はより攻撃的な姿勢を示すようになり、会戦の直後の741年にはアラブ側の重要な拠点であったメリテネを攻撃した。742年と743年には、レオン3世の死去後に即位したコンスタンティノス5世と将軍のアルタバスドス(英語版)との間で発生したビザンツ側の内戦に付け込み、ウマイヤ朝の軍隊が比較的損害を受けることなくアナトリアを襲撃したものの、アラブの文献からは大きな成果を挙げたという記録はみられない。 アクロイノンにおけるアラブ軍の敗北は、ビザンツ帝国に対するアラブ側の圧力を弱めることにつながったため、伝統的にはアラブとビザンツの戦争における「決定的な」戦いであるとともに「ターニングポイント」であると考えられてきた。しかし、20世紀初頭のシリア学者のE・W・ブルックスからワルター・カエギ(英語版)やラルフ=ヨハンネス・リーリエ(英語版)などの現代のビザンツ学者に至るまで、アクロイノンの戦いの後にアラブの攻勢が弱まった原因は、内戦とアッバース革命に起因するアラブ人政権内部の混乱と、軍事資源を限度を超えて使い果たしたウマイヤ朝の辺境地域における他の深刻な失敗(例としてハザールとの戦争におけるアルダビールの戦い(英語版)やマー・ワラー・アンナフルにおける隘路の戦い(英語版)がある)が同時期に起きた結果であるとして、この見解に異議を唱える学者も存在する。いずれにせよ、結果として740年代のビザンツ帝国に対するアラブの攻撃はほとんど成果がなく、間もなく襲撃は完全に停止した。実際にコンスタンティノス5世はウマイヤ朝が崩壊した機会を利用してシリアへの一連の遠征を敢行し、770年代まで続く東部辺境におけるビザンツ帝国の優位を確保することに成功した。 一方、イスラーム世界においては、敗北したアラブ軍の司令官であるアブドゥッラー・アル=バッタールの記憶が語り継がれ、バッタールはアラブの最も偉大な英雄の一人となり、サイイド・バッタール・ガーズィー(英語版)の名で後世のトルコの叙事詩に登場することになる。
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