戦闘後の両軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 04:50 UTC 版)
停戦後両軍は協定に同意し、イギリスはアナポリスロイヤルに戻ることができた。イギリス軍は降伏条項3にあるように「2列に整列して、弾を込めない銃を持ったフランス国王の軍の間を、イギリス国王の軍は、軍礼により、太鼓の演奏と旗をなびかせて行進」した。その後のイギリス軍の6日間に及ぶ行軍は、深く積もった雪の中、かんじきもつけずに行われたため、ニューイングランド兵の疲労は極限に達し、厳しい寒さもあって、かなりつらい行軍であった。そのため、帰還してから兵士は高熱と下痢に見舞われ、150人以上がそれがもとで死んだ。フランス軍はその後グランプレから退き、まずコベキド地域のノエルに、捕虜と両軍の負傷者を連れて行った。重傷を負った兵は、グランプレのアカディア人の元に残した 。捕虜の一部は春になってニューイングランド部隊へ釈放され、一方で他の者たちはケベックを通ってボストンへ戻された。ところがこの戦闘は何ら役には立たなかった、それというのも、1747年の3月には、ニューイングランド軍はグランプレに戻ってきて、石造りの家に陣取り、住民たちに、イギリス政府への忠誠な従属の誓いを復活させたからである。 この戦闘の跡地は1924年にカナダ史跡記念物委員会の指定を受け、1938年に銘板が建てられた。 多くの作家がこの戦闘を題材にした文学作品を発表している。歴史家で詩人のメアリー・ジェーン・カッツマン・ローソンは1820年ごろに『グランプレの戦い』という詩を書いている。またアーチボルド・マクミーハンはこの戦闘を題材にした『レッド・スノウ・オン・グランプレ』(Red Snow on Grand Pre)という作品を発表している。
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