樊伷
南陽の人で、古い名族だった《潘濬伝》。「樊胄」とも書かれる《襄陽記》。 樊伷は武陵郡の部従事を務めていたが、異民族たちを誘い入れて武陵郡をこぞって劉備に味方しようとしていた。これより先、関羽が殺されたとき郡県はみな孫権に帰服したが、その中に零陵北部尉の習珍という者がいて、密かに樊伷と盟約を結んだ《潘濬伝・襄陽記》。 章武元年(二二一)七月、劉備が秭帰に進出すると武陵の諸県や蛮民が彼に呼応したので、孫権は陸遜・潘濬らに鎮圧させたとある《先主・呉主伝》。樊伷が挙兵したのはこのときのことであろうか。 現地の官吏は「一万人を預けて督を派遣してくれ」と訴えたが、孫権は聞き入れず、特別に潘濬を呼んで訊ねてみた。潘濬「兵士五千人もあれば生け捕るに充分です」、孫権「卿はなぜ軽視なさるのか?」、潘濬「樊伷は口先が達者ですが実は弁論の才能がありません。臣がそれを知っているのは、樊伷はむかし州の人々を食事に招いたことがあり、真昼になっても食事ができず彼自身で十回以上も立ち上がるということがあったからです。これこそ俳優は一節を見れば分かるというものです」。孫権は大笑いした《潘濬伝》。 潘濬は孫権の命を受けて兵士五千人を率いて出撃、樊伷は敗れて斬首された《潘濬伝》。ほどなく習珍も潘濬によって平定された《襄陽記》。 【参照】関羽 / 習珍 / 孫権 / 潘濬 / 劉備 / 荊州 / 南陽郡 / 武陵郡 / 部従事 / 零陵北部尉 / 督 |
樊伷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 20:56 UTC 版)
樊 伷[1](はん ちゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物[2]。本貫は荊州南陽郡。
生涯
荊州武陵郡の部従事を務めていた。この地は、樊城の戦いで関羽の勢力が駆逐されると劉備から孫権の支配下に移ったが、樊伷は異民族たちをも誘い入れて孫権に反旗を翻し、劉備に与した。
孫権配下の督[3]はこの反乱鎮圧のため一万の兵を要請したが、孫権はまず潘濬を召し寄せて意見を求めた。これに対し潘濬は、「樊伷は南陽の古い家柄の出で、口先は達者ですが、真の弁論の才はありません。私の知るところによれば、樊伷は昔、同郷の人々を食事に招いたおり、なかなかその支度が整わず、自ら立ち上がる(支度の様子を窺う)こと十余回に上ったとのこと。これは侏儒[4]は体の一節を見れば分かるという例です」と樊伷を軽んじる意見を述べ、差し向ける兵も五千で十分とした。
孫権は大笑いしてその進言を容れ、潘濬率いる五千の兵により樊伷は斬られ、乱は平定された。
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 潘濬伝及び注に引く『江表伝』 s:zh:三國志/卷61#潘濬
脚注
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