王甫
字は国山。広漢郡郪の人《楊戯伝》。王商・王士の従弟《華陽国志》。 人物評価や議論を愛好した。劉璋の時代には州の書佐であった。先主(劉備)が蜀を平定したのち緜竹の県令となり、荊州議曹従事に昇進した。先主の呉征討に従軍したが、秭帰の敗戦によって殺害された《楊戯伝》。 『華陽国志』の「先賢志」では緜竹県令から州の高官に昇ったとあり、「士女目録」では「別駕従事王甫」とある。緜竹県令から益州別駕従事を経て、呉征討に際して荊州議曹従事に移ったのかもしれない。 従兄王士や李朝・李邵とともに「李王四子」と称され、いずれも琳瑯(美玉)のようだと評された《華陽国志》。 【参照】王士 / 王商 / 李邵 / 李朝 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 荊州 / 呉 / 広漢郡 / 郪県 / 秭帰県 / 蜀 / 緜竹県 / 議曹従事 / 県令 / 書佐 |
王甫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 04:54 UTC 版)
王甫 | |
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蜀漢 議曹従事 |
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出生 | 生年不詳 益州広漢郡郪県 |
死去 | 章武2年(222年) 荊州南郡秭帰県 |
拼音 | Wáng Fŭ |
字 | 国山 |
主君 | 劉璋→劉備 |
王 甫(おう ほ、? - 222年)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は国山。益州広漢郡郪県の人。子は王祐。従兄弟は王商・王士。
生涯
陳寿が記した三国志では、楊戯伝の「季漢輔臣賛」に記載されている。
風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐(書記の事務を担当する者)として仕えた。後に劉備が益州を奪うと、綿竹県令となり、次いで荊州議曹従事に異動となった。章武2年(222年)、劉備の呉討伐に従ったが、軍が南郡秭帰県で敗北した際に戦死した(夷陵の戦い)。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、王甫を「立派な風格を持っていた」とし、「心映え良く、蜀漢の誉れとなる人物であった」と評価している。
また華陽国志・先賢志では広漢郡の優秀な人材として、従兄の王士、そして李氏の三龍と謳われた李朝・李邵らと並べ取り上げられている。
子の王祐は父の面影があり、位は尚書右選郎にまで登った。
三国志演義の王甫
小説『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言する。しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を作るよう王甫に命令している。その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落。関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになる。
王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を進むべきと諌める。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしない。仕方なく王甫は、周倉と共に麦城の留守を守ることになる。しかし、王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、殺されてしまう。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を追って櫓から身を投げ、自殺することになっている。また、周倉も自刎し果てている。
参考文献
王甫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
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