碁石の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:38 UTC 版)
古くは『風土記』(733年頃成立)に碁石に関する記述が見られ、『常陸国風土記』に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。また『出雲国風土記』に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。奈良県の藤原京で発掘された碁石は丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩。7世紀末 - 8世紀始めに使用されていたと推定される(週間碁)。自然石の碁石は江戸期まで使用された。本因坊道策が幼い頃使ったという碁盤と自然石の碁石が現存している。 正倉院に所蔵された聖武天皇愛用の碁石は紅牙撥鏤碁子(こうげばちるのきし)と名付けられ、直径1.6cm 厚さ0.8cm、象牙を染めて花鳥の文様を彫り付けたものであり、色は緑と紅色である。弘仁2年の文書では320枚があったと記載されているが、現存するのは252枚である。『源氏物語絵巻』では碁石は黒と白のものが使用されていることが分かる。 現在は黒は黒色の石を用い、那智黒石(三重県熊野市で産する黒色頁岩または粘板岩)が名品とされる。白はハマグリの貝殻を型抜きして磨いたものである。碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石には貝殻の曲線どおり、薄くて中央が凹んだものがある。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤が市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。 現在一般に出回っているものはメキシコ産である。白石と黒石は価格が違い、ハマグリ製の白石が非常に高価で、業者によっては黒石は「那智黒石付き」と、白石のおまけ扱いにしている。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない。 ハマグリの碁石は庶民が気軽に買えるものではなく、明治期には陶器や竹製の安物の碁石が存在した。大正時代にガラスの碁石が試作されたが、当初は硬化ガラスではなく普通のガラスだったので、脆く割れやすかった。その後プラスチックや硬質ガラス製の製品が出回り、安価な用具の大量生産が囲碁の普及に果たした役割は大きいと言える。近年では持ち運び用のマグネット製のものもある。メノウ製の高級品もある。 中国では古代には木で碁石を作ったらしく、中国呉の時代(222年 - 280年)に書かれた『博奕論』(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、日本の寛永年間(1624年 - 1644年)の『玄玄棊經俚諺鈔』という解説本には、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。また碁石は300個が定数であったことも記されている。時代が下ると、高級な碁石は「玉(ぎょく)」と呼ばれる一種の宝石から作られた。 中国唐代の『杜陽雑編』という書物に、宣宗帝年号大中年間(847年 - 860年)に日本一の碁の名手である日本の王子が来朝し、中国一の名手と対戦する逸話の記載がある。日本の王子は日本には冷暖玉という宝石の碁石があることを物語り、「本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺上に手譚池あり 池中に玉子を出す 製度によらされども自然に黒白明分有 冬ハ暖く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 日本の王子入唐して此石を冷暖玉として唐朝へ進上せらると載たり」と記されている。 玉の碁石は割れやすく、日本のように音を立てて盤に打ち付けるということはなかった。中には石一個が銀貨二枚に相当するとされるほど高価なものもあったが、かつての名品の多くが、碁は退廃的として攻撃された文化大革命時代に収集家から奪われるなどして散逸してしまった。
※この「碁石の歴史」の解説は、「碁石」の解説の一部です。
「碁石の歴史」を含む「碁石」の記事については、「碁石」の概要を参照ください。
- 碁石の歴史のページへのリンク