碁界合同へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 13:43 UTC 版)
三派鼎立 1920年(大正9年)には中外商業新報(日本経済新聞の前身)で坊社両派の混合敗退戦を開始、第1局は方円社岩佐銈と坊門の井上孝平が対局した。また同年、小杉丁、向井一男らが中心となり、本因坊門と方円社の若手棋士6名による研究会「六華会」結成。瀬越憲作、鈴木為次郎、井上孝平らに講評を依頼、小岸壮二を会友に迎えるなどし、九州日報社の内田好之輔の運動で棋譜が地方新聞に掲載されるようになり、その後も岩本薫、橋本宇太郎、木谷實、前田陳爾ら多くの若手棋士が参加、日本棋院結成時までには会員20数名を数えるまでになった。1921年(大正10年)には中川亀三郎に八段を贈り、方円社顧問を委嘱。 第一次世界大戦後からの碁界合同の機運が高まった1922年(大正11年)、時事新報の矢野由次郎や代議士の大縄久雄発起で、秀哉以下の坊門、方円社、16世井上因碩を始めとする関西の棋士、稲垣日省など中京の棋士が署名した「日本囲碁協会」の趣意書が配付され、政財界からも多くの賛同を受けた。1920年に方円社長となった広瀬平治郎はこの機運に乗じて社屋の丸ビル移転を計画し、財界有志による寄付金を募集、移転披露囲碁大会を「日本橋倶楽部」で開催などするが、病に倒れ計画は頓挫する。同年12月に方円社理事の雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作と高部道平の4名が独立して「裨聖会」を設立、総互先・コミ出し制、持ち時間制、成績の点数制などの近代的な手合制度を開始する。これに刺激を受けて、方円社の副社長格岩佐銈と広瀬門下の加藤信は、本因坊秀哉との間で坊社合同を合議し、広瀬の集めた資金により翌年1月に丸ビルに中央棋院を設立する。 しかしほどなく資金運用を巡って加藤と本因坊派が対立し、4月に社屋は方円社に復し、本因坊派は中央棋院として日本橋に移転した。ただしこの時に旧方円社の小野田千代太郎、喜多文子の2名が合同の意志を継続して中央棋院に残った。これにより、碁界は、中央棋院、方円社、裨聖会の三派鼎立時代と呼ばれるようになる。この年3月には本因坊算砂300年祭が行われ、関西の吉田操子や本因坊秀哉らの斡旋で、裨聖会を除く方円社や井上家などの棋士も勢ぞろいする盛況となり、合同への再度の動きの契機となった。また第一次大戦後の不況もあり、各派の経済事情も苦しくなってきたこともこれを促した。 大合同 1923年(大正12年)の関東大震災により各派は大きな打撃を受け、中央棋院と裨聖会は方円社に合同を申し入れ、これを拒否するならば方円社との新聞手合を拒絶すると迫った。雁金らを欠き、小野田の中央棋院行きなどもあって加藤信に続く棋士が岩本薫四段ぐらいとなっていた方円社はこれを受け入れた。また大倉財閥の大倉喜七郎の援助を受けるられることとなり、1924年(大正13年)4月に関西の棋士らも参加して棋界合同協議開催、5月に方円社解散、7月に碁界大合同による日本棋院設立、方円社所属棋士は日本棋院所属となった。
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