碁所就位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 10:27 UTC 版)
算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上、2年後の1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙する。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから寺社奉行より碁所を命ぜられた。碁所の地位は江戸期を通じて四家元の争いの舞台となってきたが、隔絶した実力を誇った道策には他家からの異議は全くなかったという。翌年5月に碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となっている。 その後も御城碁を1696年(元禄9年)まで勤め、相手が片寄っているとはいえ14勝2敗で、2敗はいずれも二子局で1目負けという圧倒的な成績を残した。特に1683年(天和3年)の安井春知との二子局1目負の碁は、自ら一生の傑作と述べて名高い。 ただし、将棋の大橋家に残っていた「大橋家文書」によると、1698年(元禄11年)の御城碁について、碁所として対局の組み合わせを作ったが自身の対局予定がなかった道策に向かって、安井知哲が自分と道策との対局を望んだが、道策が断ったことが記されている。道策が対局をことわった理由については、「碁所であること」「盤上の争いを避ける」の二つをあげたとされ、晩年とはいえ「史上最強の棋士」のイメージが崩れる言動である。増川宏一は「道策が対局を避けたのは、負けた場合に権威にかかわるからであろう」と記している、 1688年(元禄元年)には京都寂光寺にて本因坊算砂追善碁会を開く。 墓所は京都妙泉山寂光寺、東京の本妙寺、生家の山崎家の3箇所にある。生家には三次郎時代に愛用した盤石も残されている。 歌聖人麻呂、画聖雪舟と並び、石見三聖の1人ともされる。
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