安井知哲とは? わかりやすく解説

安井知哲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/02 03:14 UTC 版)

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安井 知哲(やすい ちてつ、正保元年〈1644年〉 - 元禄13年5月11日1700年6月27日〉)は、江戸時代囲碁棋士で、家元安井家三世安井知哲。一世安井算哲の三男で、二世安井算哲(渋川春海)は兄[注 1]本因坊道策とはライバル関係だった[1]

生涯

山城国の生まれ。幼名は小三郎。少年時の明暦3年(1657年)などに二世安井算知、兄算哲らとともに鹿苑寺に招かれる他、万治4年(1661年)には仙洞御所後水尾法皇に対局を上覧した(「隔蓂記」、知哲先で算哲勝)。またこの頃知哲と改名し、寛文4年(1663年)には江戸で新規召し出される。寛文7年に道策とともに御城碁初出仕。二世算知が延宝3年(1675年)に本因坊算悦との争碁を20番で打ち止めて碁所を返上、元禄10年(1697年)に隠居して、知哲が安井家当主となる。延宝6年の本因坊道策の碁所就任時に上手(七段)並との手合とされた。元禄13年に病没、京都寂光寺に葬られ、法名は理心院知哲居士。元禄5年(1692年)に跡目としていた安井仙角が安井家四世となった。また、長女は渋川春海の子昔尹に嫁いだが、昔尹が夭逝したため、正徳5年(1715年)次男の右門に渋川家の天文方を継がせて敬尹とした。

対局譜

道策とは御城碁初出仕時の対局を含め48局の棋譜を遺しており、道策の対戦相手としてはもっとも多い。当初は1歳年下の道策定先だったが、6番手直り5度の30局で知哲二子となり、二子番26局で知哲1番勝ち越し、最終的には先二の手合となった。寛文10年(1670年)の知哲先番中押勝の碁は、知哲の傑作譜とされる。

他に本因坊道悦井上道砂因碩井上道節因碩星合八碩本因坊策元本因坊道知林玄悦門入との棋譜が遺されている。御城碁では、道策に先で1勝1敗、道的と互戦で2敗など。

漫画「ヒカルの碁」において佐為-菅原顕忠戦の棋譜は、寛文9年10月14日の知哲(先)-道策戦が使われた。

御城碁成績
  • 寛文7年(1667年) 先番5目負 本因坊道策
  • 寛文9年(1669年) 白番4目負 林門入
  • 寛文10年(1670年) 白番2目負 林門入
  • 延宝4年(1676年) 白番2目勝 井上道砂因碩
  • 延宝5年(1677年) 先番5目負 本因坊道策
  • 天和元年(1681年) 先番19目負 本因坊道策
  • 貞享4年(1687年) 白番13目負 本因坊道的
  • 元禄元年(1688年) 白番12目負 本因坊道的
  • 元禄2年(1689年) 先番17目負 本因坊道的
  • 元禄3年(1690年) 白番6目負 井上道節因碩
  • 元禄4年(1691年) 白番中押負 井上道節因碩
  • 元禄5年(1692年) 白番13目負 本因坊策元
  • 元禄6年(1693年) 先番1目勝 井上道節因碩
  • 元禄7年(1694年) 白番5目負 井上道節因碩
  • 元禄8年(1695年) 先番9目勝 井上道砂因碩
  • 元禄9年(1696年) 向三子6目負 林玄悦門入
  • 元禄10年(1697年) 先番中押負 井上道節因碩
  • 元禄11年(1698年) 白番8目負 本因坊策元
  • 元禄12年(1699年) 白番中押負 井上道節因碩

脚注

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注釈

  1. ^ 二世安井算知の子という記述もある(『隔蓂記』など)

出典

参考文献

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