安井算哲とは? わかりやすく解説

やすい‐さんてつ〔やすゐ‐〕【安井算哲】

読み方:やすいさんてつ

[一][1590?〜1652]江戸初期囲碁棋士保井算哲とも書く。河内(かわち)の人。渋川春海の父。家元安井家の祖。幼少より碁をよくし、徳川家康認められ碁所(ごどころ)となった

[二]渋川春海


安井算哲(初代)

読み方やすい さんてつ

江戸前期囲碁棋士安井家初代幼名六蔵幼少より碁技に優れ19才剃髪し、算哲と名乗り碁打衆に加えられた。棋力名人、上手の間といわれた。慶安5年(1652)歿、63才。

渋川春海(しぶかわはるみ・しゅんかい 安井算哲 1639-1715)

 囲碁棋士天文方暦学蘭学者現存日本最古地球儀製作者
 渋川春海は、安井算哲(1590-1652)の子として京都生まれ14歳で父の跡を継ぎ安井算哲として碁所勤務するかたわら暦学数学学び天文暦学に強い興味示した
 春海は、当時の暦(宣明暦)は、中国の暦長期わたってそのまま使用していたことによる誤差累積さらには中国・日本間の経度差による誤差のあることを知る。そこで、(中国授時暦にもとづく改暦試みとともに、度々改暦上奏した。
 その後春海の手になる貞享暦完成し貞享元年(1684)に採用決定され翌年から使用された。これは、日本人による最初の暦であり、その後太陰暦基本となった
この功により、同年幕府新設され天文方勤めることとなり、以後渋川家がこれを世襲することになる。翌年には江戸本所邸宅天文台設置し天文観測をした。
 そして元禄5年には、幕府から武士身分認められ元禄15年には渋川春海と改姓した。しかし世襲のことは、春海から息子の昔尹(ひさただ)、甥の敬尹(ひろただ)などに継承されるが、いずれも早世し、その後養子縁組が続くことで、世襲どころか天文方としての力量低下し、9代に高橋善助渋川景佑)を迎えてやっと建て直し図られることになる。

 直接地図測量関わることでは、春海元禄 3年(1690)に作製した地球儀日本人製作した現存する最古のもので、伊勢神宮奉納されて同徴古館所蔵されている。春海地球儀のほか、天球儀作製しいずれも伊勢神宮献納した元禄 4年1691)。関連する著書には、天文書天文瓊統てんもんけいとう)」(元禄11年)などがある。

安井算哲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 02:13 UTC 版)

安井 算哲(やすい さんてつ、天正18年(1590年) – 慶安5年1月9日1652年2月18日))は、江戸時代囲碁棋士。元の名は六蔵江戸幕府から俸禄を受けて家元安井家の始祖となる。実子の二世安井算哲(渋川春海)と区別して古算哲とも呼ばれる。

生涯

天正18年(1590年)、安井忠右衛門宗順の第二子として生まれる。幼時より囲碁を学び、算砂の弟子とも伝えられる(『爛柯堂棋話』)。

慶長5年(1600年)11歳の時、榊原康政を介して徳川家康伏見城で召し出され、30石12人扶持を与えられる。駿府にて碁の相手を務めたり、本因坊算砂林利玄らとともに碁会などに招かれていたが、祇園社の被官とも(「舜旧記」)、久宝寺の者とも記される(「鹿苑日録」)のは大阪久宝寺(八尾市)の出であったため思われる。慶長13年(1608年)、剃髪して算哲と名乗る。

慶長17年(1612年)には、道碩50石に次ぐ30石の俸禄を受けた。大坂の陣では叔父の安井道頓豊臣方にあったが、父・宗順や叔父・定吉を家康に引き会わせ、徳川方の案内者に推挙する。その後は京都に居を構え、毎年3月に算砂らとともに江戸に下った。寛永3年(1626年)の二条城徳川秀忠御前で中村道碩と対局、先番3目勝。それ以前にも御前対局は行われていたが、この碁が御城碁の始めといわれている。道碩が死去した後の正保元年(1644年)、本因坊算悦井上因碩(玄覚)、算哲らに寺社奉行より道碩後継の碁打衆頭領の地位の詮議がなされ、算哲は自薦するも受け入れられず、算悦、因碩は辞退したため、空位のままとなった(碁所詮議、「伝信録」)。

実子が無かったため、または未だ幼少のためとして、門下の安井算知を養子として家督を譲った。ただし後に長子が二世算哲として安井家を継いだため、家系としての安井家と碁家としての安井家がこの時期並立していたとの見方もある。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家三世となる。

慶安5年(1652年)、京都にて死去。法号は正哲院紹元。

発言

  • 中村道碩と100数十局の対局があり、道碩40番勝ち越しと伝えられるが、その戦い振りは道碩をして「碁に勝っても命は取られる」と言わしめた。寛永3年の二条城での対局は算哲の傑作とされる。また二条城での対戦で、1手目を辺(右辺下)に打った局も知られている。寛永5(1628年)、同6年(1629年)には江戸城で道碩と対戦し、算哲先で1勝1敗。棋力は名人、上手の間と言われた。
  • 島原の乱の時に、当初江戸からは板倉重昌が向かわせられたが、その後に松平信綱らも送った。この時に算哲は、重昌が討ち死に致すべしと周囲に語り、その通りの報告が届いたために江戸では話題となった。

参考文献

  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 林元美著・林裕校注『爛柯堂棋話』平凡社 1978年

外部リンク




安井算哲と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「安井算哲」の関連用語

安井算哲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



安井算哲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
おもしろ地図と測量のページおもしろ地図と測量のページ
copyright (c) オフィス 地図豆 All right reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの安井算哲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS