大橋家文書
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江戸時代の将棋の家元三家のうち、最上位格であった大橋家に残されていた文書(大橋家文書)を研究・解説した。 「将棋所」は将棋の名人家が名乗っていた称号であり、幕府への提出書類で「将棋所」と名乗ったところ、公式な役職ではないと差し戻されたこともわかっている。また、幕府から名人家に与えられた扶持はわずかなもので、扶持と将棋関連の仕事だけでは生活していくことができず、賃貸などの副業で糧を得ていたこともわかっている。 また、日本将棋連盟は慶長17年(1612年)に初代大橋宗桂が、初代名人・将棋所となったとしているが、増川は、この時期には、「名人」「将棋所」いずれの名称もまだ存在していないとしている(囲碁の「名人」「碁所」も同じ)。
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大橋家文書
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筆まめな人物で、大橋家文書のほとんどは同じく筆まめであった五代宗桂、十一代宗桂とこの九代宗桂の手書きの文書類で占められているという。天明2年(1782年)より五代宗印と共に「奥御用」を務めたことも明らかになっている。また、足袋の着用をたびたび願い出たり、「将棋所」を役職名として幕府に認めさせようとしてその度に拒絶されるなど、将棋指しの地位向上や待遇の改善に腐心したという。
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