道知との争碁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/18 08:23 UTC 版)
宝永2年(1705年)の御城碁で、四段格ではあるが進境著しい15歳の本因坊道知と対戦することになったが、道知の後見であった井上道節因碩より、六段の仙角と互先での対局を申し入れられる。仙角は寺社奉行に不服状を提出、道節は争碁の願書を出し、さらに稲葉丹後守、久世大和守らに働きかけて先相先での対局とする。11月2日に行われた下打ちは翌明け方までかかって行われ、中盤までは仙角が優勢に進めたが、終盤に道知がヨセの妙手で逆転して1目勝となった。続いて道知先相先での十番争碁を命じられ、翌年道知先番15目勝、白番3目勝と連勝し、仙角は互先の手合を了承して争碁を中止とした。「宝永の争碁」と呼ばれる。 享保5年(1720年)には井上家、林家とともに道知を準名人(八段)に推挙し、翌年名人碁所就位の願いに同意。同年、自身も八段に進む。 享保8年(1723年)に上野宮祟宝院宮の求めで道知らとともに長谷川知仙の七段を承諾し、享保12年に上野宮に願って知仙を跡目とする。しかし知仙は翌年死去し、享保20年に門下の田中春哲を再跡目とする。仙角は2年後に没し、春哲が五世安井仙角となった。 仙角は会津松平家より50俵の扶持と屋敷を拝領していたが、知仙を跡目としてからは浜町に移って教場を設けた。またそれまで京都寂光寺を安井家墓所としていたのを、江戸深川浄心寺に移した。
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