道祖神
(道祖神信仰 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 03:19 UTC 版)
|
|
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2013年1月)
|
道祖神(どうそじん、どうそしん)は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。
保存・修復の具体例と倫理的配慮
保存作業は単に物理補修を行うだけでなく、地域の信仰や慣習を尊重した運用が求められる。近年のプロジェクト例:
- 碑文の非破壊撮影・高精細写真アーカイブ化(風化で消えつつある碑文の記録化)。[1]
- 保護屋根(小祠)設置による風化抑制と、参拝儀礼の継続を両立させる方法論。保存方針策定では住民の同意形成が第一に位置づけられる。[2]
保存の倫理的配慮として、学術的文脈での公開(撮影・発表)と、宗教的慣習(供物・注連縄などを外部が勝手に触れない)をどう両立させるかが議論されている。
比較宗教学的視点と国際的類比(新論点)
比較的視野を広げると、道祖神には朝鮮半島や中国の境界神・路神との類似点が見出され、古代交流を通じた要素移入の可能性が研究で論じられている。だが、道祖神は日本の在来信仰と結びつきローカルに変容したため、単純な輸入説では説明しきれない複雑な同化過程を含む。これが今後の比較研究の焦点である。[3]
近年の学術成果と今後の研究課題
近年の主要課題としては、(1)碑文のデジタル解読と年代再検証、(2)GISを用いた分布解析、(3)祭礼の変容(観光化・人口動態との連動)、(4)物質文化(石材分析)に基づく生産流通史の解明、が挙げられる。これらに対し、地方自治体と大学・研究機関が連携する複合的プロジェクトが産声を上げている。[4]
象徴性と機能
境界と旅人の守護
道祖神は本質的に「境界」と「交差点」の守護神と見なされる。村の端、橋、山道の峠、街道の分かれ道など、人間の世界と未知の領域が交わる場所に設置される。日本の民俗信仰では、そういう場所はあやしい霊、疫病、災厄などの侵入を招くとされる。道祖神の存在は、これらの害を防ぎ、共同体の安全を保つ精神的な結界の役割を果たす。[5] [6] 古くは「塞の神/障の神」(Sae no Kami/Sai no Kami)という名でも呼ばれており、「塞/障」は「さえぎる」「遮る」という意味を持つ。つまり、悪いものを遮断する神という意味である。これは清浄と不浄、文明と荒野、人と霊界などの間にある境界線を守るという考え方と通じる。[7]
生産、結婚、子孫繁栄の祈願
この守護の機能を超えて、道祖神は生産力、繁殖力、結婚の守り神としても重視されている。農村では、男女一対の像を刻み結婚や子孫の繁栄、家庭の幸福を祈願する習慣がある。[8] また、時には男性器・女性器をかたどった石像や彫刻を用いることがあり、自然界の創造的エネルギー(生の力)を象徴する。これらは不敬とはされず、むしろ神聖なものとして扱われる。農作物の豊穣、安産、子孫繁栄を願って、酒や餅などの供物を捧げることも古くからの慣習である。[7][5]
健康、繁栄、共同体の調和
道祖神はまた、公共の健康や幸福の維持にも関与する。もし村の道祖神が破損したり汚されたりすると、疫病や不幸が訪れる前触れと考える地域もあり、その際には修復や浄化の儀式が行われる。[6] 生殖や農業に関する象徴は、神が人間だけでなく土地や作物の繁栄とも結びつくことを意味する。人の繁栄と自然の豊かさが連動するという観点で、「共感魔術(sympathetic magic)」的な信仰構造を指摘する学者もいる。[8] また、道祖神祭りなどの年中行事では、共同体の絆と社会の一体性を強める役割を果たす。住民が共に祈り、祝うことで、コミュニティとしての帰属意識や伝統の再確認がなされる。[5][8]
精神的・宇宙論的役割
道祖神は人生の重大な転換期(婚姻、出産、旅立ち、死など)にも関係している。これらは人が一つの状態から別の状態へ移る「境界」の瞬間であり、脆弱性が高く、邪悪あるいは不浄な力にさらされやすいとされる。道祖神はそうした時期を守る存在である。[7] また、神道と仏教が重なり合う中で、道祖神は仏教の地蔵菩薩などと似通った性格を帯びることがある。旅人や子どもを守るという点で、地蔵と共通する要素を見せる。[6][7] さらに、道祖神の石碑や像には建立年、施主名などが刻まれており、地域の歴史と信仰の記憶を宿す「記憶の石」としての側面も持つ。これにより、単なる護符的存在にとどまらず、文化的・歴史的アイデンティティの維持にも貢献している。[8]
地域差と素材の象徴性
地域による表現や崇敬のあり方には大きな差がある。長野県(特に安曇野地方)では、男女一対の人間像が多数見られ、そのスタイルは比較的人間の体格や顔などが出るが、年齢を重ねた風合いや風雨による風化があるものも多い。[8][5] 群馬県や新潟県などでは、より抽象的・象徴的な形をとることがあり、男性器などを強調した形の石柱や彫刻が見られる地域もある。[5][9] また、木材や仮設の素材で作られることもあり、季節の行事や特定の儀式のために一時的に設置される像などがある。[6][5]
儀式と祭り
有名な例として、長野県野沢温泉の道祖神火祭りがある。毎年1月に行われ、高さのある木製祠(しでん)が村人たちによって建てられ、火のついた松明を持った人々がそれをめぐる儀礼的な「戦い」をする。儀式の終わりにはその祠が焼かれ、新しい年に対する浄化と再生を象徴する。[10] また、小さな役割を持つ地域の祭りでは、酒、餅、藁人形(わらぞう)などの供物を道祖神に捧げ、旅人、新婚夫婦、妊婦の安全と幸福を祈る。これらの祭りは地域社会の交流の場でもあり、婚活や共同体の絆を強める機会となっている。[5][8]
現代の文化遺産
物質文化:石材・碑文・造形技術の新知見
近年のフィールド調査では、道祖神像に用いられる石材の産地選定、加工痕、風化パターンが詳細に記録されており、以下の点が明らかになっている。
- 「地場石材」の比率が高く、石材選択は搬送コストと耐久性のバランスで決定された。河原石や花崗岩、安山岩が多い。[11]
- 碑文(建立年・施主名・願文)は江戸中期以降に急増し、近世の地域社会における寄進文化・共同体の可視化に寄与している。近年の写真記録プロジェクトにより、風化で読めなくなった碑文のデータベース化が進行中である。[12]
- 加工技法は粗彫りで輪郭を取る「荒彫り」→浅彫りで細部を仕上げる工程で、地域の石工により様式差(線の深さ、顔のデフォルメ)が生まれることが確認された。[13]
これらの物的データは、石の年代推定・地域間の技術移転・寄進主体の社会史的分析に資する基礎材料を供する。
現在の実践
都市化や世俗化が進む中でも、道祖神の信仰は地方および郊外地域で残っている。村の道祖神石や像は定期的に清掃されたり、文字刻印を塗り直したり、注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)などの聖なる飾りが取り替えられたりする。こうした行為は正式な神道の祭祀というよりも、地域のアイデンティティと歴史の継続を表す慣習である。[6][7] 近代の神社では、道祖神は交通安全や家庭の安定を守る神として再解釈されることがある。旅人、新婚夫婦、妊婦のためのお守り(おまもり)が販売され、古来の象徴性が現代生活に適応されている。[5][8]
芸術とポップカルチャーへの影響
道祖神のイメージは、日本各地の民俗芸術や現代アートに影響を与えている。長野県や山梨県などでは、石の小さな夫婦像や木彫りのフィギュアが土産物として作られ、男女一対の守護神の伝統的な形を保っている。地域のクラフトフェアでは、これらの彫刻が郷土の誇りと遺産の象徴として展示される。[14] 文学や映画では、道祖神は「帰郷」「旅」「過去と現代との対比」などのモチーフとして使われることがある。アニメやマンガにも、村境や悪霊を防ぐ守護石など、道祖神を連想させるモチーフが登場し、郷愁や伝統と変化のテーマを表現する。[7]
観光と地域のアイデンティティ
野沢温泉の道祖神火祭りは、現在では国際的に知られる冬のイベントの一つとなっており、毎年1月に多数の観光客を引き寄せる。危険と共同体の精神と神話的象徴が混ざった様子がメディアで取り上げられる。地方観光局は、道祖神を信仰の対象だけではなく、文化の象徴・地域ブランドの一部としてもプロモーションしている。[10][8] 長野県松本市、小諸市、諏訪市などでは、古い道祖神石を修復し、それらを巡る散歩道を作る取り組みがある。こうした保存活動は、旅人の守護という原義を継承しつつ、文化遺産としての価値と観光価値を結びつけている。[14][5]
学術・文化的解釈
民俗学や宗教学の分野では、道祖神は「土着の霊性(ヴァナキュラー・スピリチュアリティ)」の象徴としてしばしば論じられる。公式宗教と日常信仰のあいだをつなぐ生きた接点であり、中央集権的な寺社制度に所属しない共同体の記憶と参加によって維持されている。[6] 長野県立歴史博物館や千葉の日本歴史博物館などでは、道祖神の彫刻を展示し、それらを宗教的な遺物であると同時に地域工芸・民俗芸術の表現として位置づけている。展覧会ではしばしば、像の材質、形態、彫刻スタイル、模様や文字刻印などの視覚的特徴に焦点が当てられる。[14][7]
世界への認知
近年、道祖神のイメージは日本の精神性や物質文化をテーマにした国際展覧会やドキュメンタリーに取り上げられることが増えている。自然物や風景を神聖視するアニミズム的世界観の現代的象徴として、文化比較の対象にもなっている。[7][6] こうして、道祖神は元来の地理的・宗教的境界を越えて、日本文化のアイコンとして、人と自然の調和を示す象徴的存在となっている。
アイコン表現と美術的描写
形象の形式:姿勢・対像・ジェスチャ
- 「双体道祖神」(男女一対の道祖神)は、もっとも一般的な具象表現の一つである。男性と女性が並んで立ち、手をつなぐ、男性の腕が女性の肩に回る、または酒の盃を交し合うなどのジェスチャーで表されることが多く、結婚や調和を象徴する。[15] - 抱擁(だきしめる姿勢)、頭を寄せ合う、頬を触れ合うようなものまで含む対像もあり、親密さと繁殖の願いが込められている。[15] - 非具象・抽象的な形態もあり:単なる柱状の石、丸石、または男女器を象った彫刻。これらは形而上的・原始的な創造のエネルギーを表すものとされる。[15][9]
材質・表面仕上げ・規模
- 多くの道祖神は、地元の石材(花崗岩、川石、玄武岩など)から彫られ、未磨きの粗い表面を持つことが多い。石そのものが神を宿すとされるため、自然な風合いが神聖とされる。[9][15] - 木彫りや仮設素材で作られた小像もある。祭礼のために一時的に設けられ、彩色や浅彫で装飾が施されることもある。[5][15] - 規模も様々で、小さな掌に乗る程度のものから高さ2メートル近くある大きな立像まである。長野県安曇野などには職人の技の見える大きなものも多い。[16]
地域別スタイルの差異
- 長野県では、男女一対の人間像が多数存在し、年齢を感じさせる風格、風化のあとが見られるものが多い。衣装はシンプルで、装飾性は抑えめ。[8][5] - 群馬県や新潟県では、より抽象的な石柱型や象徴的な形のものが見られ、性器表現を強めたスタイルもある。[5][9] - 木製や一時的な仮設の像も地域によってあり、季節行事のためだけに作られ、使用後に壊す・撤去するなどの慣習を伴うものもある。[6][5]
衣装・顔貌・付属品
- 人間像では、衣装は質素であることが多い。着物風の衣装、簡素なローブ、幾つかのしわやひだが刻まれてはいるが、装飾性は少ない。[15] - 顔表現は、落ち着いた、穏やかな、あるいは中立的な表情が一般的。目、口は浅く彫られ、鼻などは風化であいまいになることもある。帽子や頭飾り、布で覆うなど、信仰者によって付け加えられることもある。[17][5] - 酒の盃や供物台、紙垂などの儀礼用具を持たせたり近くに置いたりすることがあり、生殖、結婚、邪悪除けなどの象徴性を強める。[15]
碑文・彫刻技法
- 多くの道祖神には碑文が刻まれており、建立年、施主名、「道祖神」「塞神」「障の神」などの文字が見られる。これは神の名を示すだけでなく、信仰・建立に携わった人々の記憶を刻む役割を果たす。[15] - 彫刻技法は、粗彫りで形を出し、その後、顔・手など細かい部分を浅彫りで整えるものが多い。時間の経過で風化することで細部が失われる例もある。[15] - 表面仕上げは通常磨かれておらず、苔や地衣類(こけ/ちょうちんぐさ等)で覆われたり自然の色が残ったりする。場合によっては小屋(祠)で覆われているものもあり、風雨から守られている。[9][5]
象徴的モチーフと視覚的テーマ
- 性器を象った形状:男性器・女性器の表現は繁殖力・生の力を象徴する。抽象的あるいは具象的な形で現れ、最古の表現形態の一つとされる。[9][15] - 対の概念:男性と女性の補完的対比、統一された一対、調和などが結婚・共同体の安定を象徴する。[15] - 境界を示す標柱・石碑・路傍の立て石など、シンプルな形状であっても「ここが村の限界」「外の世界との接点」を視覚的に示すもの。[9][5] - アニミズム的要素:石の自然な形状、割れ目、質感をあえて残すもの。過度な研磨や過度の装飾を避け、自然さを重視する例が多い。[5]
時代と年代を示す指標
- 現存する精巧な道祖神像の多くは、江戸時代後期(1603-1867年)から明治初期(1868-1912年)にかけて造られたとされている。碑文や建立記録にその時期を示すものが多い。[15] - 造形のスタイルも時代によって特徴が異なり、古いものは簡素で風化しており、近代のものは顔や手の表現がはっきりしていたり、装飾的な要素が増えていたりする。[15] - 修復や再塗装、小屋を設けるなど、後世の改変が加わることがあり、作られた当時とは異なる外見になる場合もある。[5]
例外的・珍しい形態:天狗型など
- 東京町田市などには、天狗の形をした道祖神像があり、修験道や民間信仰の影響を受けている。羽団扇(はねうちわ)や杖を持ち、鳥のような顔や派手な意匠を持つものも存在する。非常に稀な形態で、地域限定のもの。[18]
参考文献
- ^ “Rural Life with Dosojin”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “道祖神めぐり - 安曇野市公式ホームページ”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “道祖神信仰の源流 : 古代の道の祭祀と陽物形木製品から”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “道祖神研究 - CiNii”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “Dosojin - Japanese Protective Stone Statues”. OnMark Productions. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Hori, Ichirō (1968). Folk Religion in Japan: Continuity and Change. University of Chicago Press. pp. 82–85
- ^ a b c d e f g h Ashkenazi, Michael (2003). Handbook of Japanese Mythology. ABC-CLIO. p. 142
- ^ a b c d e f g h i “The Origins and Purpose of Dosojin”. Japan Tourism Agency. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g 引用エラー: 無効な
<ref>タグです。「mainwiki」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ a b “Nozawa Onsen Dosojin Fire Festival”. Japan National Tourism Organization. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “Azumino Dosojin and local guides”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “道祖神研究 - CiNii”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ “Rural Life with Dosojin”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c “Nagano Folk Art and Dosojin Tradition”. Nagano Tourism Organization. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “[httpshttps://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R1-02299.html The Origins and Purpose of Dosojin]”. Japan Tourism Agency. 2025年10月15日閲覧。
- ^ 引用エラー: 無効な
<ref>タグです。「azumino」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 引用エラー: 無効な
<ref>タグです。「districts」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ “Tengu Dosojin Stone Deity of Naruse (Rare Edo-period guardian statue)”. 2025年10月15日閲覧。
概要
起源と古代的連続性
道祖神的信仰の起源は単一の時点に還元できず、古代の城柵・都城周辺の「道の祭祀」や、陽物形の木製品を伴う境界祭祀と長い歴史的連続性を持つことが考えられている。考古学的資料や古代出土品(陽物形木簡など)を手掛かりに、道祖神の原型は城柵や都域の四隅、あるいは門口に置かれた防御・祝祷具に由来する可能性が指摘されている。こうした発見は、道祖神を単なる近世以降のローカルセンチュリーに帰するのではなく、古代から中世にかけての「境界管理」儀礼の延長線上に位置づける根拠を与える。[1] 道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている[2]。
厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる[3]。全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる長野県安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い(真鶴町と安曇野市は友好親善提携が結ばれている)。
各地で様々な呼び名が存在する。道陸神(どうろくじん)[4]、賽の神[4]、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では「仁王さん」(におうさん)の名で呼ばれる[5]。
道祖神の起源は不明であるが、『平安遺文』に収録される8世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝宝8歳(756年)条には人名としての「道祖王」が見られる。
神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』で、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されており、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。平安時代の『和名抄』にも「道祖」という言葉が出てきており、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている[2]。13世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と訓じている。後に松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。
道祖神が数多く作られるようになったのは18世紀から19世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である[6]。
神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために村の男性たちが海にくり出しており、皆が祈りをこめて道祖神が作られている[7]。
岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり[2]、猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた[6]。また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた[6]。
種類・形状
|
この節の加筆が望まれています。
|
道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である[6]。像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む[6]。
- 単体道祖神
- 単体二神道祖神
- 球状道祖神
- 文字型道祖神
- 男根型道祖神[2]
- 自然石道祖神
- 題目道祖神
- 双体道祖神
双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神[8]。「双立道祖神」の呼称も用いられたが、座像や臥像の像も見られることから、「双体道祖神」の呼称が用いられる[9]。双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる[10]。山間部において濃密に分布する一方で平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される[11]。伊藤堅吉は1961年時点で全国に約3000基を報告しており[10]、紀年銘が確認される中で最古の像は江戸時代初期のものとしている[12]。
- 餅つき道祖神
- 丸石道祖神
- 多重塔道祖神
道祖神信仰
|
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2016年2月)
|
道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている[6] [13]。
長野県安曇野市には約400体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約370体の石像道祖神があるが、対して旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている。
道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある。
参考画像
-
道祖神(神奈川県藤沢市にて)。
-
本村の神代文字碑(長野県安曇野市)。
-
長野県伊那市高遠町長藤にある花文字道祖神。
-
静岡県沼津市大平にある伊豆型道祖神。
-
烏天狗像が彫られた道祖神(東京都町田市南成瀬)。
脚注
- ^ “道祖神信仰の源流 : 古代の道の祭祀と陽物形木製品から”. 2025年10月15日閲覧。
- ^ a b c d 大東(2013年), p. 356.
- ^ ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 201.
- ^ a b ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 195.
- ^ 水木(2004年)、p.48
- ^ a b c d e f ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 202.
- ^ “神奈川県・県西地域ウォーキング 道祖神コース”. 神奈川県. 2017年9月1日閲覧。
- ^ 伊藤(1961年)、p.22
- ^ 伊藤(1961年)、p.23
- ^ a b 伊藤(1961年)、p. 24
- ^ 伊藤(1961年)、p. 26
- ^ 伊藤(1961年)、p. 30
- ^ “道祖神 – 安曇野公式観光サイト 信州あづみのの旅”. 安曇野市観光協会. 2018年8月9日閲覧。
参考文献
- 伊藤堅吉「双体道祖神(一)」『甲斐路 No.2』、山梨郷土研究会、1961年。
- 水木しげる『妖鬼化 5 東北・九州編』Softgarage、2004年9月。ISBN 978-4-86133-027-8。
- 大東敬明 著「道祖神」、松村一男他 編『神の文化史事典』白水社、2013年2月、356頁。 ISBN 978-4-560-08265-2。
- ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。 ISBN 4-309-49566-4。
関連資料
- 出口米吉 「正月十五日の道祖神祭につきて」 『東京人類學會雜誌』 日本人類学会、第17巻第193号、1902年、pp.272-281。 NAID 130003827245、doi:10.1537/ase1887.17.272
- 本位田重美 「道祖神考」『人文論究』 関西学院大学、第20巻第1号、1969年4月10日、pp.1-15。 NAID 40001969814
- 本位田重美 「続道祖神考」『人文論究』 関西学院大学、第25巻第3号、1975年12月5日、pp.1-14。 NAID 110001068607
- 倉石忠彦 「都市と道祖神信仰」、『国立歴史民俗博物館研究報告』 国立歴史民俗博物館、第103巻、2003年3月、pp.237-262。doi:10.15024/00001094
- 張麗山 「境界神としてのサルタヒコ」、『東アジア文化交渉研究』 関西大学文化交渉学教育研究拠点、第5巻、2012年2月1日、pp.103-113。 NAID 110008793766。
- 鈴木英恵 「33 東西にみる道祖神の現状」、『年報非文字資料研究』 、神奈川大学日本常民文化研究所付置非文字資料研究センター、2011年3月、7号 p.457-478。
関連項目
外部リンク
道祖神信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:03 UTC 版)
道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている 。 長野県安曇野市には約400体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約370体の石像道祖神があるが、対して旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている。 道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある。
※この「道祖神信仰」の解説は、「道祖神」の解説の一部です。
「道祖神信仰」を含む「道祖神」の記事については、「道祖神」の概要を参照ください。
- 道祖神信仰のページへのリンク