近代の黒川金山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 03:55 UTC 版)
明治維新期には上黒駒村(笛吹市御坂町)の博徒・黒駒勝蔵が黒川金山の採掘計画を企図している。勝蔵は甲州博徒の一人で、竹居村の竹居安五郎と同盟し、国分三蔵や祐天仙之助ら甲斐国内の博徒や駿河国の清水次郎長と抗争を繰り広げた。 勝蔵は役人に追撃され慶応元年(1865年)に甲斐を逃れ、相楽総三の赤報隊に加わり、のち京都で四条隆謌(しじょうたかうた)の徴兵七番隊(第一遊軍隊)に入隊して明治維新に参加する。明治維新後、1870年(明治3年)に徴兵七番隊は解散されるが、勝蔵はそれ以前に隊を離れ、甲斐へ戻り黒川金山の採掘計画を新政府に出願している。ところが勝蔵は徴兵七番隊の脱退嫌疑により捕縛され、博徒時代の殺人罪なども含めて1871年(明治4年)2月2日に刑死している。 1871年(明治3年)には甲府柳町の松木源十郎が黒川金山の採掘を試みているが、このときは砂金が取れたのみで採掘を断念している。1906年(明治39年)には黒川金山株式会社が設立され翌年に操業を開始するが、二年後には廃業となっている。1912年(明治45年)には黒川金山の所在する萩原山一帯が水道水の水源林として東京市に買収される。 戦後は黒川金山は学術的見地から注目され、1986年(昭和61年)には黒川金山の総合調査が実施された。さらに1997年(平成9年)には黒川金山遺跡・中山金山遺跡が「甲斐金山遺跡」として国史跡に指定される。 黒川金山に近い甲州市一之瀬高橋地区は黒川金山の金山衆子孫によって拓かれた村であるとする伝承が伝わり、鶏冠神社の里宮や黒川金山から移転されたと伝わる黒川山金鶏寺がある。一之瀬高橋には道祖神信仰と関係する小正月の民俗芸能として一之瀬高橋の春駒が伝わっている。
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