甲府道祖神祭礼の運営
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「甲府道祖神祭礼」の記事における「甲府道祖神祭礼の運営」の解説
甲府市は戦時下に甲府空襲の被害を受け、近世期に関する歴史資料の多くが焼失しているため甲府道祖神祭礼の実態に関する資料も稀少であるが、山梨県立博物館所蔵甲州文庫には八日町一丁目の道祖神祭礼に関する勘定帳簿である『甲府道祖神祭礼永代帳』(以下『永代帳』)が含まれ、甲府道祖神祭礼の経済的側面や運営に関する資料として注目されている。 『永代帳』に拠れば、甲府道祖神祭礼を実行する費用は人生儀礼や不動産関係など様々な慶事の名目に対する祝儀金が主体で、祝儀高の基準は宝暦13年(1763年)に定められたという。不足分は屋敷の間口に応じて徴収される間口高によって賄われている。また、甲府道祖神祭礼においては若者集団や都市下層民が不当に祝儀金を徴収し、祭礼執行の中核である会所において酒食に浪費するなど逸脱行為が存在し、祭礼を主導する家持の富裕層に反発する下層町民も彼らに加担していたと言われ、甲府道祖神祭礼においては表通りに店を構える富裕町人と裏店の下層町人という甲府城下の階層的対立が指摘される。 又問て曰。けふの祭礼を見るに町々きのふにことなり誠に神道のさかんなるとやいわん。道祖神の御神慮に叶ひ候ハんや。答て曰。近年世上驕奢に相なり、礼おとろへておごりと成り(中略)祭りも左の如く町切にまけじおとらじとひじをいからし、けんくわ眼に成りて、軒端美を尽くすといへども、未だ善を尽くしたる所を聞かず。町々のもの入如何ほどゝ云ふかきりなし。其内神前の入用はすくなくして、酒肉・狂言類に多分をついやし、神をいさめ奉る心なく、己等が楽しミ計ニ多クの人をセゝり。 — 『甲府道祖神話』 こうした若者集団・下層民の逸脱に対して家持町人は主導権の掌握を図り、文政10年(1827年)には家持層が主導して祝儀高を定め、祭礼に関わる諸道具や祭礼の中核となっていた会所を管理するなど逸脱行為の統制に務めている。 祝儀高は特に婚礼や不動産関係が特に高額であることが指摘されている。祝儀金の徴収は実際には町人の経済的状況などから祝儀高通りには徴収されていないが、一方で慶事の有無や金額の大小に関わらず積極的に奉納を行う町人が富裕・下層を問わずに認められることが指摘される。 甲府道祖神祭礼の支出金額の推移は、『永代帳』の記載範囲によれば運営が若衆・下層民に主導されていた安永後年から天明年間には平均した22貫余が支出されている高額傾向にあり、うち祝儀高は18貫余りとなっている。対して寛政中期から享和初年には支出額も減少し平均15貫余りが支出されて、祝儀高も減少し平均8貫余となっている。この時期の支出額の減少は寛政の改革による倹約令の影響であると考えられており、寛政5年には甲府城下でも倹約を命じる町触が発せられている。一方、この時期は若衆・下層民から家持層が祭礼の主導権を掌握した時期であり、従来の祝儀高に左右された不安定な運営から、間口高徴収による安定した祭礼運営が完成した時期とも評価されている。 文化・文政年間には一転して支出額が増加し、平均20貫以上が支出されており祝儀高の割合も増加する。文化3年(1806年)には最高額の60貫が支出されており、護符など神事に関係する経費が特に多く支出されている。享和3年(1803年)4月には甲府城下で大火が発生しており、この時期には疫病も流行し、甲府町年寄の坂田忠実も歴代の坂田家当主と比較して特に高額の奉納を行っている事実もあり、こうした高額支出の背景には災害・社会不穏による道祖神信仰の加熱があったと考えられている。なお、野田泉光院はこの時期の甲府道祖神祭礼の様子を見聞している。 さらに文政年間にも引き続き支出額は高額傾向にあるが、文政11年(1828年)には笛吹川や荒川における洪水で甲府城下にも被害が起きており、文化年間と同様の事情で道祖神信仰の加熱があったと考えられている。 『永代帳』の記載は文政9年までとなっており以降の支出傾向は不明であるが、天保7年(1836年)には甲斐一国規模となった天保騒動が発生し城下においても打ちこわし被害を受けているほか、天保飢饉の発生など天保年間にも災害・社会不穏は起きており、天保13年(1841年)には歌川広重が招かれ幕絵製作を行っている。 『甲州日記』に拠れば広重は幕絵製作の手付金として5両を受け取っており、広重が受け取った最終的な礼金はその数倍に及んでいたと考えられている。広重の来甲に近い文政年間における道祖神祭礼の経費は平均して3両余りで、幕絵は城下全体で数百枚製作されたと推定され、さらに幕絵の素材である麻布や幕串などの諸経費と合計するとこの天保年間における甲府道祖神祭礼に関する支出は莫大な額に及んでいたと考えられている。 その背景には天保騒動の余波による甲府城下の衰微があり、祭礼には復興祈念や景気浮揚があったと考えられている。
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