名人碁所就位とは? わかりやすく解説

名人碁所就位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/16 16:16 UTC 版)

本因坊察元」の記事における「名人碁所就位」の解説

宝暦6年1756年)に七段昇段目論み、安井春哲仙角了承したが、因碩と林転入門入反対した。察元は同じ六段門入に6局で五番勝ちであることを主張してまた争碁を迫り、因碩、門入同意得た明和元年1764年)には因碩とともに八段準名人に進む。明和3年1766年)に、本因坊道知門下であった林祐元門入を添願人として名人就位を願い出て、これに因碩と仙角が反対したため、因碩と二十番の争碁を打つことになる。1局目はその年の御城碁で、因碩先番ジゴ、2局目から6局目まで察元が5連勝し、察元は手直り申し入れ寺社奉行認められ名人就位を果たす。ただしこの時に碁所就位認められなかった。 その後、察元は碁所就位求め、因碩と跡目の春達、仙角と跡目の仙哲らは再度の争碁を求めてそれぞれ幾度も願書提出して争うが、明和7年1770年)に至って老中列席の下で寺社奉行土屋能登守より遂に碁所に任ぜられた。同年には山本烈元を跡目定める。その後本因坊恒例京都寂光寺への墓参をするが、法眼格式をもって大々的な行列を組み莫大な浪費はなったが、本因坊家の威光を示すことになった本因坊道知以後名人碁所空位となっていた上に、本因坊家も3代続いて七段に達することがない道中衰の時代と言われたが、察元の名人碁所就位により棋道中興の祖呼ばれる明和4年御城碁では将軍家上覧があり、察元に対して将棋について尋ねられ将棋二段答えたという。明和5年御城碁井上春達に向二子で2目負とした碁は、察元一生中の出来として有名である。

※この「名人碁所就位」の解説は、「本因坊察元」の解説の一部です。
「名人碁所就位」を含む「本因坊察元」の記事については、「本因坊察元」の概要を参照ください。

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