丈和との暗闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 21:52 UTC 版)
天保の内訌においては、丈和ともう一方の主役だった。丈和は因碩の11歳年長であり、対戦は因碩15歳の時の先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁4打ち掛けであった。文政11年(1828年)1月に丈和は八段準名人に昇り、その翌月に因碩も八段準名人に昇る。その後丈和の名人碁所就位において6年後に地位を譲るという密約を交わし、因碩は丈和の碁所を認める口上書を提出するが、天保2年(1831年)に名人碁所に就位した丈和は約束を守らず、因碩は碁所就位の運動を起こす。天保6年(1835年)7月、松平家碁会において弟子の赤星因徹を丈和と対局させるが敗れる。(因徹吐血の局) 天保10年(1839年)に丈和が引退すると、因碩は名人碁所の願書を提出、これに本因坊丈策が異義を申し出て、天保11年(1840年)に丈策の跡目で当時21歳の秀和との四番争碁を打つことになる。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。その後、天保13年(1842年)にも秀和と2度対局するが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念する。その後弘化2年(1845年)、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子(水谷順策)となっていたのを井上家跡目に迎え、井上秀徹とする。同年太田雄蔵と十番碁を行うが(雄蔵先)、棋譜は3局までのみ残っている。
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