家元間の確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/18 08:20 UTC 版)
1737年(元文2年)に四世仙角が没し、家督を継いで五世安井仙角となる。この年には伊藤宗看による「碁将棋名順の訴」も起き、仙角は林因長門入、井上春碩因碩、本因坊秀伯とともに従来の順位を守った。1739年(元文4年)の本因坊秀伯の七段昇進を求めた際には仙角が林因長門入、井上春碩因碩を説得するが同意を得られなかった。1743年(寛保3年)に門入が名人碁所出願した際には、本因坊伯元とともに反対の異義書を提出して争碁を迫り、門入を断念に至らせた。1748年(寛延元年)より弟子の原仙哲を跡目として、御城碁に出仕させる。 1766年(明和3年)に本因坊察元が碁所就位を出願した際には、井上春碩因碩とともに反対し、察元と春碩の争碁に至った。争碁により翌年察元が名人に就くと、仙角と因碩は跡目の仙哲、春達との争碁を察元に求め、更に察元の碁所就位に反対して跡目との対局を求めた。しかし察元の反駁で寺社奉行からは認められず、察元は1770年(明和7年)碁所に就き、お止め碁となった。
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