家元制崩壊とは? わかりやすく解説

家元制崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 19:21 UTC 版)

伊藤宗印 (8代)」の記事における「家元制崩壊」の解説

江戸幕府衰退していくにつれて家元三家対す支援次第減少していった。これにより将棋道連れのように衰退の道を辿り名人不在の期間が長らく続くほどの後継者不足にも陥ってしまった。 八代宗印は初名は上野次郎といい、大橋本家十一代大橋宗桂弟子一人であったが、後に伊藤家養子となり伊藤宗印名乗るうになる1859年兄弟子である天野宗歩死去すると、次期名人候補として期待集めようになった明治維新の頃には、家元制度家禄失い有名無実化してしまった。八代宗印は高齢十一代宗桂に代わって将棋界中心となり、1869年明治2年)には大橋分家当主九代大橋宗与らと協力して将棋界再興図り百番出版校合会」を呼びかけ大矢東吉小野五平各地強豪参加とりつけ将棋界再興着手した。しかし八代宗印と大矢小野その後昇段などの件をめぐり対立し九代宗与の投獄事件などもあって将棋界分裂状態になってしまう。 宗印の名人襲位にあたって若手有望株である松本竹次郎角落ち(宗印が上手)で指し分け五分)以上の成績ならば認めるという小野らとの妥協成立した1873年明治6年)、1局目は敗れたが2局目で勝利し、ここで勝負打ち切りとした。しかし、名人襲位の実現はさらに6年になった1879年明治12年)、35年ぶりに十一世名人を襲位した。しかし上方方面支持基盤得た小野五平との溝は埋まることはなかった。 1881年明治14年)、『将棊新報』を刊行する1893年明治26年)に死去。宗印が死去してから6年後に小野五平十二世を襲位する事となり、江戸初期より続いてきた家元名人位の制度崩壊した駒落ち将棋長け、「駒落ち名人」の異名もあったという。 実戦譜に小菅編集した将棋名家手合』がある。本法寺墓誌がある。

※この「家元制崩壊」の解説は、「伊藤宗印 (8代)」の解説の一部です。
「家元制崩壊」を含む「伊藤宗印 (8代)」の記事については、「伊藤宗印 (8代)」の概要を参照ください。

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