家元襲名後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:16 UTC 版)
寅次郎が日本国外や実業界で活躍する間、家業の宗徧流は、40年近くにわたって家元不在のままであった。大正12年(1923年)、57歳の寅次郎は弟子たちの懇請によって家元を襲名し、宗徧流第8世山田宗有となる。 家元として宗有は、流派の組織化を進め、機関誌『知音』を創刊するなど、宗徧流の振興に尽力した。また宗徧流が、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに間接的にかかわった(流祖山田宗徧と吉良義央とは同門、小林平八郎、大高源吾らが門人であった)忠臣蔵ゆかりの流派であることにちなんで東京の墨田区で義士茶会を始めるなど、全国で茶道を広める活動を盛んに行っている。 一方で、家元襲名後も寅次郎は実業界からは手を引かず、昭和2年(1927年)には吹田製紙(現・三島製紙吹田工場)を創業した。同社は昭和11年(1936年)に三島製紙と合併するが、その後も経営に関わり、三島製紙の社長、会長を歴任している。 また、トルコとの親善交易にも関心に持ち続けた。オスマン帝国に代わり建国されたトルコ共和国が日本と国交を結んで東京にトルコ大使館が開かれると大使と大阪の財界との間を取り持ち、大正14年(1925年)に大阪財界主導で日土貿易協会を設立、その理事長に就任して日本とトルコの間の貿易を行った。第一次世界大戦後に誕生した新生トルコ共和国は、国内産業保護のために諸外国との貿易事業を厳しく制限し、イスタンブールにあった日本商品館も閉鎖された。日土貿易協会は貿易対象国をトルコ周辺のバルカン半島諸国やアラブ諸国などにまで広げ、1937年(昭和12年)には名称を「近東貿易協会」と改めた。 昭和6年(1931年)にはトルコを再訪し、イスタンブールに滞在して現地の財界から大歓迎を受けた。また、ムスタファ・ケマル大統領に首都アンカラに招かれて面会したが、ケマルは士官学校で寅次郎が日本語を教えていた時、自分もその中の一人として日本語を教わった思い出を語り、大変な友誼を示したという。 トルコ訪問に合わせ、貿易の活路を求めてギリシャの商品見本市にも参加し、昭和8年(1933年)には、ギリシャの大阪駐在名誉領事に就任。 第二次世界大戦勃発に伴い、1939年には日本とトルコ間の通商関係はなくなった。大戦末期の1945年(昭和20年)にはトルコ大国民議会が日本との断交を決議。駐トルコ日本大使館は閉鎖され、2月23日にトルコは日本に宣戦布告した。 昭和23年(1948年)、寅次郎は三島製紙(現・日本製紙パピリア)の会長を辞任して実業界から離れ、以後は茶道に専念、90歳で没した。
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