意欲的な創作活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:35 UTC 版)
雄輝はストーリー性を重視した、わかりやすく新しい振り付けを創作していった。また自らが「ステージダンサー」として舞う新しいスタイルも確立。1958年(昭和33年)に発表した創作舞踊『こうの鳥』や、家元襲名後に発表した『宗右衛門町』は舞踊界から高い評価を受けた。『宗右衛門町』は、一人の老女が花柳界で過ごした半生を回顧するというストーリー。左腕で翼、右手の扇でプロペラを表して、空襲に来たB29爆撃機を表現するなど、独特な振り付けが織り込まれていた。さらに能、歌舞伎、新派など、他の芸能の手法をも大胆に取りいれていった。 やがて息子・慎之介の家出事件を契機に妻・清子と復縁、妻子を大阪に呼び戻し家族3人で暮らし始める。慎之介はその2年後には東京へ出て、俳優・歌手としてデビューすることになるが、これでかえって舞踊の創作と流派の普及に専心するようになる。 1986年(昭和61年)、人間国宝に認定。1997年(平成9年)11月には文化功労者に選ばれ、次は文化勲章かと期待されたが、直後の1998年1月29日、心筋梗塞で急逝した。74歳没。
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