暴政の兆し
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312年1月、呼延皇后が亡くなると、劉聡は王育・任顗・朱紀・馬景ら国家の重鎮の娘6人を後宮に入れた。太保劉殷の娘まで後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから劉乂が固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰劉延年・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは「臣は太保の劉殷が周王室系の劉の康公(中国語版)(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、大鴻臚の李弘を遣わして劉殷の娘2人(劉英と劉娥)を左右の貴嬪とし、昭儀より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。劉聡が劉弘へ「この女たちは皆、容姿が絶世のものである上に徳も世に冠たるものである。朕と太保劉殷とは別の家系であるから彼女らを娶ったのだが、卿はどう思う」と問うと、劉弘は「陛下とは姓が同じであるだけですので何も問題ないでしょう。魏の司空であった王基は当時における大儒で礼にも通じていましたが、同姓ながら家系の異なる太原の王沈の娘を子のために妻に迎えました」と言った。劉聡は大いに喜び、李弘に黄金六十斤を下賜して「卿はこの事を朕の子弟に伝えるように」と言った。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾ける程であり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪の劉英がこれを認可した。 この頃から劉聡に暴虐な振る舞いが増えた。左都水使者である襄陵王劉攄は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となった。将作大匠である望都公靳陵は温明殿と徽光殿の完成が遅かったという理由で斬られた。 劉琨の牙門将邢延が新興郡ごと漢に降伏し、劉聡に并州攻撃を求めた。劉聡は鎮北将軍靳沖・平忠将軍卜珝を派遣して晋陽を攻め、包囲した。 3月、代公拓跋猗盧が兵を率いて晋陽救援に向かった。漢軍は敗れて晋陽から撤退した。 劉聡の遊猟には節度がなく、朝早くに出かけて夜に帰った。汾水で漁の見物を行い、夜になっても灯りをともし続けた。中軍の王彰は「大難は未だ鎮まっておらず、晋の残党が長安におります。しかしながら、陛下は白竜魚服の災いを忘れ、いつも夜遅くまで帰られません。陛下は先帝の苦労をよく考え、これを受け継ぐべきです。そうすれば、自然と天下の民は情を寄せてきます。にもかかわらず、なぜ自ら成功の道を閉ざすのでしょうか。なぜ堕落の道を選ぶのでしょうか。最近の陛下の振る舞いを観ますに、臣はひどく心を痛めております。人々の心はまだ漢だけに傾いておらず、晋を懐かしむ者もおります。そのうえ、劉琨は遠からぬ地にあり、すぐにでも刺客を送り込むことができます。帝王であろうともひとたび身辺を手薄にして外出すれば、一夫の者でも敵となり得ます。どうか陛下には今までの行いを改め、善行を積んで民の幸いに助力されますように」と諫めた。これを聞いた劉聡は激怒して彼を処刑するよう命じた。だが、上夫人の王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助け、獄に繋ぐよう命じた。母の張氏は劉聡が怒りに任せて刑を乱発するので、大いに心を痛めて三日に渡って食事を取らなかった。また、弟の劉乂や子の劉粲も、劉聡を厳しく諫めた。劉聡はまた怒り「朕が夏の桀王、殷の紂王、周の幽王や厲王のような暴君だというのか。汝らはなぜこのようなやつのために涙を流すのだ」と言った。太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、みな冠を外して涙を流しながら「光文帝(劉淵)は、聖なる武をもってよって期を見定めて大業を興しました。だが、天下はいまだ定まらず、陛下はその徳によって事業を受け継ぎ、東に洛陽を、南に長安を平定しました。その功績は周の成王に匹敵し、徳は夏の啓王を超越しております。さながら唐・虞(堯と舜)を見ているようです。しかし近年は、僅かな誤りで王公を処刑し、直言をしたことで大将を獄に繋ぎました。また、遊猟にも節度がなく、朝政を顧みようとなさりません。臣らにはその意味を理解することができず、心を痛めて寝食を忘れるほどであります」と固く諫めて言った。ここに至って、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。 劉聡は「あの発言は酔っての事であり、本心ではない。卿らの諫言がなければ、朕は過失に気がつかなかっただろうな」と言い、それぞれに帛百匹を下賜し、王彰は釈放された。侍中が劉聡の言葉を王彰に伝え「先帝は君を左右の手の如く頼ってきた。朕は君の功績を忘れたことがない。今回の事は気にせず、今後も国のために直言してほしい。君を驃騎将軍に任じ、定襄郡公に封じることにする」と述べた。 安北将軍の趙固と平北将軍の王桑は、長史の臨深を人質として劉琨に送り、帰順を願い出た。劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史に任じた。
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