石コンとは? わかりやすく解説

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石コン

(石琨 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/17 15:00 UTC 版)

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本来の表記は「石琨」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

石 琨(せき こん、? - 352年)は、五胡十六国時代後趙の皇族。父は石虎

生涯

石虎の子として生まれたが、父の時代の事績は伝わっていない。

時期は不明だが汝陰王に封じられた。

349年5月、石遵が即位すると、大将軍に任じられた。11月、石遵は強大な兵権を握っていた輔国大将軍冉閔(当時の名は石閔)の誅殺を目論み、石琨・義陽王石鑑・楽平王石苞・淮南王石昭らを呼び寄せて議論を交わしたが、鄭皇太后の反対に遭い取りやめとなった。石鑑はこの一件を冉閔に密告したので、冉閔は政変を起こして石遵を殺害し、代わって石鑑を皇帝に即位させた。

12月、襄国を鎮守する新興王石祗は冉閔誅殺を掲げ、酋長姚弋仲族酋長蒲洪(後の苻洪)らと結託して内外へ檄を飛ばした。冉閔の命により石琨は大都督に任じられ、太尉張挙侍中呼延盛を始め7万の兵を率いて二道から石祗討伐に向かった。

350年1月、冉閔は自らの独断で国号を「衛」に変更し、青龍と改元した。後趙諸将の多くは冉閔に反旗を翻し、石琨もまた襄国攻撃を中止して冀州へ逃亡した。

同月、石琨は張挙・王朗と共に7万の兵を率いて冉閔(当時の名は李閔)の守るへ侵攻すると、冉閔は千余りの騎兵を率いてこれを迎え撃った。両軍は城北において激突したが、石琨らは大敗を喫し、軍を退却させた。

2月、冉閔は石鑑を殺害すると、自ら帝位に即いて国号を「大魏」と定め、永興と改元した(冉魏の樹立)。3月、石祗は襄国において帝位に即き、永寧と改元した。石琨は石祗に呼応し、相国に任じられた。

4月、石琨は10万の兵を率いて鄴攻略に向かった。6月、石琨は邯鄲まで軍を進めて陣を構えると、鎮南将軍劉国は繁陽から出陣して石琨に合流した。だが、石琨らは冉魏の衛将軍王泰に邯鄲で大敗を喫し、万を越える兵を失った。

351年2月、冉閔が襄国を百日余りに渡って包囲すると、冀州にいた石琨は兵を挙げて石祗救援に向かった。3月、石琨が襄国に逼迫すると、冉閔は将軍孫威を黄丘に派遣して迎撃させたが、石琨はこれを破って軍を壊滅させた。冉閔が全軍を挙げて出撃すると、石琨は前燕が派遣した禦難将軍悦綰・姚弋仲が派遣した子の姚襄と共に三方から冉閔を攻め立て、さらに石祗が後方から攻撃した。これにより冉閔を大いに破り、10万の将兵を戦死させた。冉閔はかろうじて鄴へ撤退した。

4月、後趙の将軍劉顕は冉閔に寝返って石祗を殺害すると、襄国を占拠した。

352年1月、襄国が冉閔に攻め落とされると、石琨は妻妾を連れて東晋へ亡命した。だが、東晋朝廷はこれを許さず、石琨は廷尉に捕らえられ、やがて建康の市において処刑された。これにより、石氏の家系は断絶したという。

参考文献




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