冉閔を討つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 17:30 UTC 版)
352年4月、輔国将軍慕容恪と共に、華北最大の勢力である冉閔討伐のために安喜へ進軍した。冉閔がその気勢を憚って常山へ後退すると、これを追って軍を転進させ、泒水の南岸にある廉台(現在の河北省石家荘市無極県の東)において両軍は対峙した。前燕軍は冉閔に大いに苦しめられたものの、敢えて敗れた振りをして敵軍を本陣に誘い込み、これを挟撃して大いに破った。これにより7千人余りを討ち取り、冉閔とその将兵を捕らえて慕容儁のいる薊へ送った。 8月、封奕は慕容恪・陽騖と共に、魯口に拠って安国王を自称していた王午討伐に向かった。王午は籠城を図ると共に、冉閔の子である冉操を前燕へ送還し、許しを請うた。これを受け、前燕軍は城外の食糧を略奪してから軍を撤退させた。
※この「冉閔を討つ」の解説は、「封奕」の解説の一部です。
「冉閔を討つ」を含む「封奕」の記事については、「封奕」の概要を参照ください。
冉閔を討つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
352年4月、慕容恪は華北最大の勢力である冉魏討伐を掲げ、国相封奕らと共に軍を興して冉閔の布陣する安喜へ進撃した。冉閔が常山へ軍を移すと慕容恪もまたこれを追い、魏昌の廉台(現在の河北省石家荘市無極県の東)にて両軍は対峙した。 ここで前燕軍は10度の戦を交えたが、一度も冉閔の軍を打ち破ることが出来なかった。元々前燕にも冉閔の勇名は轟いており、また率いる兵も精鋭揃いだったため、前燕の将兵は恐れを抱くようになった。そこで慕容恪は各陣地を巡回すると、諸将へ「閔(冉閔)の士卒は飢えと疲労に苦しんでいる。加えて閔は勇猛であるものの無策であり、一夫の敵に過ぎない。その兵は精鋭に見えるが、その実使い物にならぬのだ。撃破するなど容易いことである。今、我は軍を三部に分け、犄角の勢(軍を分けて配置し、互いに呼応しあう事)を為してこれを待たん」と激励して回ったため、兵卒は士気を取り戻した。 冉魏軍には歩兵が多く前燕軍には騎兵が多かったため、冉閔は戦場を林の中へ持ち込もうとしていた。慕容恪の参軍高開は「我らは騎兵であり、平地に利があります。もし閔(冉閔)が林に入ってしまえば、制するのは不可といえましょう。急ぎ軽騎を派遣してこれを迎え撃ち、合戦となってすぐに偽って退却し、平地へ誘い込むのです。然る後に撃つべきです」と進言すると、慕容恪はこれに従い、敵軍を平地へ誘き寄せた。 目論み通りに冉魏軍が策に嵌って平地へ誘い出てくると、慕容恪は全軍を三つ部隊に分け、左右両翼の諸将へ「閔は軽はずみに行動を起こしたがる人物であり、また我が軍の勢いが敵に非ざると判断しているだろう。必ずや決死の軍で我が中軍に突撃してくるはずだ。今、我は武具を身に纏って陣を厚く固め、その到来を待ち受ける。諸君らはただ兵を鼓舞して合戦の始まりを傍らで待ち、始まれば軍を動かして挟撃するのだ。どうしてこれで勝てぬだろうか」と命じた。また自ら率いる本隊には方陣を形成し、射撃の巧い鮮卑五千人を選抜して各々の馬を鉄の鎖で結んだ上で陣列の前方に配置した。 両軍の合戦が始まると、冉閔は朱龍という1日に千里走るといわれる駿馬に跨り、左手では双刃矛を、右手では鉤戟を操りながら、前燕軍を攻め立てて自ら300人余りを討ち取った。さらに、大将旗を望み見て敵本陣が近い事を知り、勢いのまま突撃を仕掛けた。ここで慕容恪は両翼の部隊を動かして挟撃を仕掛けさせ、冉魏軍を大いに破って7千人余りを討ち取った。冉閔は幾重にも包囲を受け、突破して東へ20里に渡り逃走を図ったが、朱龍が突如倒れてしまった事で前燕軍に捕らえられた。この戦いで冉魏の僕射劉羣を討ち取り、また董閏・張温を捕らえて冉閔と共に薊へ送還した。冉閔の子の冉操は逃走し、元後趙の将王午が統治する魯口へ亡命した。 その後、慕容恪は滹沱に軍を駐屯させた。冉魏の将軍蘇彦は配下の金光に騎兵数千を与えて慕容恪の陣を襲撃させたが、慕容恪はこれを返り討ちにして金光を討ち取った。蘇彦は大いに恐れ、并州へ逃走した。慕容恪はさらに進軍を続け、常山まで到達した。その後、慕容儁の命により軍を戻し、中山を鎮守した。 同年8月には慕容評が冉魏の首都である鄴を攻め落とし、これにより冉魏は完全に滅亡した。
※この「冉閔を討つ」の解説は、「慕容恪」の解説の一部です。
「冉閔を討つ」を含む「慕容恪」の記事については、「慕容恪」の概要を参照ください。
- 冉閔を討つのページへのリンク