冉閔との決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
同年1月、冉閔が襄国を攻め落とし、劉顕以下の百官を殺害した。これにより、中原の覇権は冉閔と慕容儁によって争われるようになった。 3月、慕容儁は再び薊に出鎮した。その後、徐々に龍城に住んでいた百官や将兵の家族を薊に移住させていき、遷都の準備を進めていった。 かつて後趙の立義将軍であった段勤(段部大人段末波の子)は冉閔の乱に乗じ、後趙に背いて前燕に帰順していたが、同年3月に胡人数万を従えて繹幕に割拠するようになると、趙帝を称して前燕から離反した。 4月、慕容儁は慕容覇らを繹幕に派遣して段勤を攻撃させ、さらに慕容恪・相国封奕らに冉閔の討伐を命じた。また、自らも中山に軍を進め、両軍の後援となった。慕容覇は繹幕へ到達すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。 同月、冉閔が安喜に進むと慕容恪はこれに従い、さらに冉閔が常山に移動すると慕容恪もまたこれを追撃し、魏昌の廉台(現在の河北省石家荘市無極県の東)にて遂に両軍は対峙した。前燕軍は十戦を交えたが、冉魏軍の守りは固かった為、一度も打ち破ることは出来なかった。冉魏軍には歩兵が多く前燕軍には騎兵が多かったため、冉閔は戦場を林の中へ持ち込もうとしていたが、慕容恪は参軍高開の献策により敗れたふりをして敵軍を平地へ誘き寄せた。冉魏軍が策にはまって平地へ誘い出てくると、慕容恪は全軍を三隊に分け、射撃の巧い鮮卑五千人を選抜し、さらに鉄の鎖で馬を結んで方陣の前方に配置した。冉閔は前燕軍を攻め立てて三百余りの兵を討ち取ると、勢いのまま全軍を挙げて慕容恪の本陣へ突撃したが、陣の先頭には鎖で繋がれた騎兵達が陣取っており、突入が出来なかった。ここで前燕軍は両翼より挟撃を仕掛けて大いに破り、7千余りの首級を挙げた。冉閔は幾重にも包囲を受け、突破して東へ逃走を図ったが、前燕軍に捕らえられた。この戦いで冉閔の他にも側近の董閏・張温を捕らえる事に成功し、みな薊へ送還した。冉閔の子の冉操は魯口へ逃亡し、王午を頼った。また、高開はこの戦いの中で傷を受け、これが原因となり昌黎において亡くなった。 やがて冉閔の身柄が薊に到着すると、慕容儁は領内に大赦を下した。また、冉閔を連れてこさせると「汝は下才の奴僕に過ぎないのに、どうして天子を称しようとしたのか」と問うと、冉閔は「天下は大乱であり、汝らの如き人面獣心の夷狄ですら奪逆(帝位を僭称)しているのだ。我は当代の英雄であり、どうして帝王になれない事があろうか!」と言い放った。慕容儁はこれに怒り、冉閔を三百回に渡り鞭打つと、龍城へ送還した。その後、同年5月には遏陘山において処刑した。 4月、慕容恪は滹沱に軍を駐屯させると、冉魏の将軍蘇彦は配下の金光に騎兵数千を与えて慕容恪を攻撃させたが、慕容恪はこれを返り討ちにして金光を討ち取った。蘇彦は大いに恐れて并州へ逃走し、慕容恪は進軍して常山に拠点を築いた。慕容儁は慕容恪へ中山の鎮守を命じた。
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