趙の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
粟邑に入った劉曜は石勒からの使者を迎えると、靳氏討伐の功により石勒を太宰・領大将軍に任じ、趙侯から趙王へと爵位を進めた。また、石勒が外出する時は厳重な警備を行う等、皇帝と同等の特権をも与えた。使者の左長史王脩と副使の劉茂も将軍に任じられ、列侯に封じられた。だが劉曜は王脩の舎人から「大司馬(石勒)が王脩等を派遣したのは、忠誠を見せるふりをして朝廷の内情を探ることが目的です。王脩が戻ったら、すぐに大軍が発せられるはずです」との進言を受けると、これを容れて王脩を処刑し、官位の任命と列侯を中止した。しかし逃げ帰った劉茂からこの事を知らされた石勒は激怒し、「我は劉氏に仕え、人臣を超えた働きぶりを示してきたつもりだ。今の漢があるのはまさしく我のおかげではないか。にもかかわらず劉氏は、志を得た途端に我を害しようとした。趙王・趙帝の位は、我自らが名乗ることにする」と宣言した。 劉曜は靳準の乱により荒廃した平陽から都を長安へと遷都し、妻の羊氏を皇后に、子の劉煕を皇太子に立て、他の息子達を諸王へと封じた。また群臣に対して「漢」の国号を改める事を提案し、これに対する「光文帝(劉淵)は最初、盧奴伯に封じられ、陛下も最初は中山で王となりました。中山とは趙から分かれた地です。国号は趙とするべきです」との上奏を受け、国号を趙とした。しかし同年11月、石勒は諸将の求めに従い、王朝内の諸群を糾合して新たな「趙」の国として独立し、自ら趙王を名乗り劉曜から離反した。これにより、趙を国号とする国が同時に二つ並び立つこととなった。史書では両者を区別する為、劉曜が再興した国を前趙(劉曜以前の時代も遡って前趙と呼称される)、石勒の建てた国を後趙と称する。
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