呉鎮守府水道とは? わかりやすく解説

呉鎮守府水道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:38 UTC 版)

本庄ダム」の記事における「呉鎮守府水道」の解説

1886年明治19年海軍区制定され呉鎮守府置かれることになり、安芸郡呉港軍港として整備されることが決まった。そこで海軍へ安定した上水を送る軍用水道「呉鎮守府水道」(海軍水道あるいは軍港水道とも)の建設決定した呉市中心部流れ二河川中流域大字荘山田村字東二河平甲に水源二河水源地)を設け海軍敷地内であった宮原浄水場まで運ばれ浄水し、鎮守府関連施設送られることとなった。ただ1903年明治36年呉海軍工廠正式に発足すると、供給不足となったことから呉鎮水道抜本的な補強を行うことが決定した1906年明治39年測量開始し1909年明治42年12月西尾虎太郎海軍経理部建築科員により4つ水源地案が作成された。1910年明治43年6月吉村長策海軍省臨時海軍建築部工務員による現地踏査が行われた後、同年11月西尾新たな案である第5案を作成し同年12月これを吉村認定したことにより本庄ダム建設決定した。 案位置推定貯水量(m3)検討結果1 二河川下流 940,000 工事費大、却下 2 賀茂郡郷原村 1,000,000 将来的拡大不可却下 3 荘山田村二河川側丘腹 300,000 貯水量不足、却下 4 1案を修正 800,000 再考 5 本庄村焼山村 1,700,000 決定 1911年明治44年6月第3期拡張工事起工1912年大正元年9月水源地着工1918年大正7年2月竣工ここから宮原浄水場送られた。同年4月28日竣工式が行われている。その規模当時東洋一と言われ過大なものとさえ言われた。工事費1,801,24660銭。呉鎮建築科設計担当技師2人途中体調不良により辞職し工事に延1,727,800人を使い死者15人・負傷者259人を出すなど、難工事であったその後呉鎮は更に拡大続け需要は更に増加し他所に水源地建設している。

※この「呉鎮守府水道」の解説は、「本庄ダム」の解説の一部です。
「呉鎮守府水道」を含む「本庄ダム」の記事については、「本庄ダム」の概要を参照ください。

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