「理性派」と「暴力派」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:18 UTC 版)
「チャーティズム」の記事における「「理性派」と「暴力派」」の解説
1838年までに形成されたチャーティズムの主力は次の3つのグループと指導者に起源を持つ。 1. 北部・中部の繊維工業地帯で活動していた中産階級の急進派、バーミンガム政治同盟(英語版)(以下、BPUと略記)のトマス・アトウッド(英語版)が指導者。BPUは成人男子選挙権の獲得に目標を切り替え、チャーティズムに支持を表明しその運動に合流した。商店主などの下層中産階級を基盤とする。 2. LWMAとその影響下にあるグループ。古い町の比較的良い賃金をもらっている熟練労働者とする。指導者は第一次選挙法改正運動の初期に現れた、ラヴェット、ヘザリントン、ジェームズ・ブロンテル・オブライエン(英語版)などである。 3. 北部で活動していたアイルランド系の有力指導者ファーガス・オコーナー(英語版)が指導者。 チャーティスト運動は自然と二つの政策系列に分かれていった。 理性派は法律の範囲内でゆっくりと組織を作ることを目指し、BPUやLWMAの影響を受けた勢力が中心となっていた。参加者への命令権は一切もたないこと、暴力的な扇動をしないこと、合法的な方法で運動を盛り上げることに力点を置いていた。LWMAは人々に運動への参加を呼びかげたが、中産階級の影響力を排除するためBPUとの統合を避け、会員を労働者に限定していた。また、『ロンドン・ディスパッチ』という機関紙を発行、労働者を啓発し世論を惹起させた。政治的には成人男子選挙権が目標だが、社会的には労働者に対する教育活動や新救貧法反対運動や穀物法問題、工場法改革などの社会改革によってブリテン社会の誤りを正すことを理想として掲げた。 暴力派は一層急進的で、ストライキや武装闘争も含む実力行使で改革の実現を志向していた。オブライエンやオコーナーが中心となっていた。また、1837年、ジョージ・ジュリアン・ハーニー(英語版) によってロンドン民主主義者協会(英語版)(以下LDAと略記)が設立された。同団体は戦闘的な団体でイーストロンドン地区の下層労働者を結集してLWMAに対抗するものだった。 とりわけ、オコナーはダニエル・オコンネルによるカトリック解放運動や新救貧法反対闘争に参加し、選挙に立候補して当選しながら財産資格に到達していなかったため議席に付けなかった経歴の持ち主で、ブリテンの議会制度を憎んでいた。また、『ノーザン・スター(英語版)』を発行しLWMAの『ディスパッチ』に対抗していた。一方、ハーニーはイーストロンドンに支持基盤があり、ロンドンにやって来たエンゲルス、そしてマルクスとも親交があって、最も初期に現れた共産主義者であった。
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