水野忠邦との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/18 08:17 UTC 版)
11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となったが、老中首座の水野忠邦と合わず、上知令、出羽国庄内藩転封、倹約令などにその都度反対を標榜した。また、忠邦を幕閣を追放せんとして策謀をめぐらし、水戸に帰国していた常陸国水戸藩主・徳川斉昭に出府を要請し、斉昭を背後から操って忠邦の天保の改革を潰そうと画策した。 しかし斉昭が出府を拒否した上、忠邦にこの動きが漏れ、逆に資始のほうが天保12年(1841年)6月、老中から罷免され隠居した。跡は長男の資功が継いだ。その後、道醇と号した。
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